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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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晋と斉の動き

 六月、晋の閻没えんぼつが兵を率いて周を守り、胥靡に築城した。

 

 八月、宋の楽祁がくきが宋の景公けいこうに言った。


「諸侯の中で我が国だけが晋に仕えております」


 城濮の戦い以来、宋は晋に対して最も良く仕えているということである。


「しかしながら最近、使者を送っておりませんので、晋の怨みを買っているかもしれません」

 

 楽祁はこの事を宰臣の陳寅にも話した。すると彼は、


「あなたが派遣されることになりましょう」


 と言った。

 

 後日、景公が楽祁を呼び、


「私だけがあなたの言に興味をもった。あなたが使者として行くべきである。他の者では務まらない」


 と使者になることを命じた。

 

 退出した楽祁は陳寅の言った通りになったため、彼に使者になったことを伝えた。すると陳寅は、


「後継ぎを立ててから出発するべきです。そうすれば我々の室(家)が亡ばず、国君も我々が困難を知りながら使者になったことが分かることでしょう。私も同行します」

 

 晋は各卿が権力を争って混乱しているため、陳寅は使者にも禍が及ぶと判断していたのである。

 

 楽祁は子の楽溷を後継者に選び、景公に謁見させて楽氏を継がせることを報告してから、行人(外交官。正使)として晋に向かった。

 

 晋の趙鞅ちょうおうが楽祁を出迎え、緜上で宴を開いた。楽祁は六十の楊楯(楊木の盾)を趙鞅に献上した。陳寅が楽祁に言った。


「昔、我が主は范氏に仕えておりましたが、今、あなたは趙氏に仕え、礼物を納められました。この楊楯によって禍を買うことになりましょう。しかし仕方がありません。あなたが晋で死ねば、その子孫は必ず宋で志を得ることができましょう」

 

 士鞅しおうは楽祁が趙氏と親しくしたことに対し、不快となったため晋の定公ていこうに言った。


「君命を受け、使者となって国境を越えたにも関わらず、使者の任を果たす前に個人的に酒を飲みました。これは二君(景公と定公)に対して不敬です。彼を討つべきです」

 

 晋は楽祁を捕えた。

 

 その頃、魯の陽虎ようこが魯の定公ていこうおよび三桓(季孫氏・孟孫氏・叔孫氏)と周社(国社。周公の社)で盟を結び、亳社(商王朝の社。魯は商奄の地にあたり、商王朝の遺民が集まっていたため、商の社があった)で国人と盟を結び、五父の衢(曲阜の大通りの名)で詛を行った。


 ここで注目するべきは、陽虎が主導して行っているということである。


 彼の権力はそこまで大きなものとなっていた。

 

 冬、魯の季孫斯きそんき仲孫何忌ちゅうそんかきが鄆を包囲した。鄆が斉と通じていたためである。


 これも陽虎の主導によるものである。


 斉が鄆と陽関を魯に返した。陽虎はそれらを受け取り、そこに住んで政治を行うようになった。


 自分の利益を求め、領地を手にするために国軍を動かしたのである。ますます陽虎の暴虐は高まっていた。



 

 十二月、周の敬王けいおうが晋に助けを求め、晋は彼を姑蕕(周地)に住まわせた。儋翩の乱を避けるためである。


 紀元前503年


 二月、周の儋翩は敬王がいないうちに儀栗(周の邑)に入って挙兵した。

 

 四月、周の単武公(穆公の子)と劉桓公(文公の子)が窮谷で儋翩と共に謀反した尹氏を破った。

 

 秋、斉の景公けいこうと鄭の献公けんこうが鹹で盟を結んだ。

 

 斉は衛も会盟に招いた。

 

 この頃、衛の霊公れいこうは晋に背いて斉・鄭に附こうとしていたが、諸大夫が反対した。そこで北宮結ほくきゅうけつを斉に派遣してから、秘かに景公にこう伝えた。


「彼を捕えて我が国を侵してください」

 

 衛の諸大夫を脅して斉との会盟に同意させるための策である。

 

 斉は味方が欲しいだけに衛の行人・北宮結を捕えて衛を侵した。

 

 結果、霊公は景公と沙(または「瑣」「沙沢」)で盟を結ぶことができた。


 斉の国夏こくか国佐こくさの孫)が晋に背いて魯(晋の同盟国)の西境を侵した。

 

 魯軍は夜間に斉軍を攻撃する計画を陽虎が立てた。

 

 陽虎が季孫斯の御者に、公斂処父(公斂陽。公斂が氏。孟孫氏の家臣。成邑の宰)が仲孫何忌の御者になった。

 

 この情報を得た斉軍はわざと防備を除き、伏兵を配置して魯軍を待った。

 

 それを察知した公斂処父は陽虎に進言した。


「禍を考慮しないようならば(斉の伏兵を考慮せず夜襲を行うなら)、あなたは必ず死ぬことになりますぞ」

 

 苫夷(季孫氏の家臣)は陽虎に詰め寄り、


「汝は二子(季孫氏と孟孫氏)を難に陥れようとしている。有司(軍法を掌る官員)を待つ必要はない。私が汝を殺すだけだぞ」

 

 陽虎は恐れて撤退したため、魯軍は敗戦を免れた。

 

 十一月、周の単武公と劉桓公が慶氏(姑蕕を守る大夫)の家で敬王を迎え入れた。

 

 晋の籍秦せきしんが敬王を守る。

 

 十二月、敬王が王城に入り、公族の党氏(周の大夫)の家に住んだ。

 

 その後、荘宮(荘王そうおう廟)を拝した。荘宮を拝したのは、荘王が王子・こくと周公・黒肩こくけんの陰謀を防いで王位を固めることができたことにあやかろうとしたのだろう。

 

 南方は楚、呉、越の三すくみになりつつ中、中原では、周に援助する晋に対し、その隙に勢力を伸ばそうとする斉の勢力という構図になり始めていた。


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