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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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越へ

 一人の男が数本の矢が体に刺さり、血を流しながら歩いていた。范蠡はんれいである。


 視界はぼやけ、呼吸するのも苦しかった。


 足に力は入らず、何度も倒れそうになるのを、精神力だけで耐え続けていた。


 それでもついに限界を迎え彼は木を背に倒れこんだ。


「ここまでか……」


 范蠡は力無く呟く。


 父の死を踏み台にして気づかれた呉という国、それを滅ぼす。そのためにここまで来たというのに、最後の最後で、孫武そんぶに一蹴されてしまった。


(無様、この上ないものだ)


 地位も名誉も捨て、挑んだというのに、ほとんど何もできないまま敗れてしまった。


(それでも果たさなければ……)


 しかしながら段々と意識が薄れて始めていた。


 その時、一人の少女が近づいてきた。少女は山菜を取っていたのか、山菜を入れた籠を持っていた。


 彼はその少女に気づくと、


「あっちへ行くと良い」


 手で指図しながら言った。すると少女は、その場を離れた。


 それから少しして、少女がまた現れた。


(何故、戻ってきたのか)


 少女は一人の老人の手を引いていた。


「おやおや大層な大怪我を負われておりますのう」


 老人は范蠡の怪我を見ながらそう言う。


「だが、あなたは運がよろしい。わしが居って良かったものだ」


 彼の後ろから何人かの男もやって来た。


「大怪我じゃからな慎重に運べよ」


 老人が男たちに指示を出す中、范蠡は男たちに担ぎ上げられたところで意識を失った。






 呉が楚から撤退した頃、魯では季孫氏の臣下である陽虎ようこの権力が大きなものになっていた。その経緯を述べるためには、少し時を遡る必要がある。


 六月、魯の季孫意如きそんいじょが東野(季氏の邑)を巡察していたが、魯都に帰る途中の房(防)で死んだ。

 

 陽虎は璵璠(魯の宝玉)を彼の葬儀で、副葬品に使おうとしたが、同じく季孫氏の家臣・仲梁懐ちゅうりょうかい(仲梁が氏)が玉を与えず、


「改歩改玉」


 と言った。

 

 これは歩を改めたのだから、玉も改めなければならないという意味である。


「歩」とは歩き方、歩く速度のことで、祭祀等においては尊貴な人ほどゆっくり歩く決まりがあった。


 魯の昭公しょうこうが出奔している間は、季孫意如が国君の代わりに政治や祭祀を行っていたため、国君の「歩」であったが、定公ていこうが即位して臣下の地位に戻ったため、「歩」も臣下のものになった。「歩」が改められた。つまり臣下の地位に戻ったのだから、副葬品の玉も国君の宝物ではなく、臣下としての玉を使わなければならないというのが仲梁懐の考えである。


 仲梁懐は季孫意如から寵愛を受けていた人物であり、陽虎とは対立していた。

 

 陽虎は怒って仲梁懐を駆逐しようとし、公山不狃(子洩。公山が氏。季孫氏の家臣で費邑の宰)に相談した。

 

 しかし公山不狃は、同意しなかった。


「彼は国君のためを思ってそうしたのだ。それなのにあなたは何を怨むというのか?」

 

 季孫意如の埋葬が終わってから、季孫斯きそんき(季孫意如の子)が東野に巡行し、費に至った。費宰の子洩(公山不狃)が郊外で慰労した。


 季孫斯は子洩に対して恭敬な態度を取ったのだが、子洩が同行していた仲梁懐を慰労した時、彼の態度が不敬であった。

 

 そのことに怒った子洩は怒って陽虎に、


「彼を駆逐したいと思うが、汝は如何する?」


 と、以前の考えを棄てて陽虎に挙兵を勧めた。


 陽虎は彼の言葉を受け、直ぐ様、乱を起こした。季孫斯と公父歜(季孫斯の従兄弟)を捕え、仲梁懐を追放した。

 

 十月、陽虎は次に公何藐(季孫氏の一族)を殺し、自分に邪魔となる存在を殺していった。その後、陽虎が稷門(魯城南門)の中で季孫斯と盟を結んだ。


 これにより、彼は仕えている主である季孫斯よりも優位に立ったことになる。

 

 更に彼は大詛を行った。「詛」というのは盟に背いた者に呪いがかかるようにする儀式である。通常の「詛」ではなく「大詛」としているのは、この盟に参加した者が多数いたためである。

 

 そして、盟に従おうとしなかった公父歜と秦遄(季孫意如の父の姉妹の夫)は斉に奔った。

 

 陽虎の毒が魯の内部において大きくなり始めていた。


 一方、その頃、左丘明さきゅうめいは仲孫氏の推薦で、史官の職に推薦を受けた。


 最初は目が見えないことから史官の職など行けるものかと思われたが、彼は一度聞いた言葉は目で見ずとも木簡に書いていき、目が見えるのと変わることのない仕事をしていった。


 おべっかを使うわけではなく、変に丁寧過ぎるほどに腰が低いわけでもなかった。やがてそんな彼の誠実さを認め、愛され始めてたことで皆、彼のことを認めるようになった。


 そのことは彼の友人の孔丘こうきゅうが知るところとなり、


「左丘明は言葉巧みで、愛想笑いばかり浮かべ、へつらうことを恥じた。私も恥だと考えている。嫌いな人間とうわべだけの交際をする事も彼は恥とした。私も恥であると思っている」


 と弟子たちの述べた。








「ここはどこだ」


 范蠡はある家で横に寝かされながら目を覚ました。


「おやおや、やっと目を覚まされたか。良いことだ。良いことだ」


 すると老人がそう言った。


「あなたは」


「わしは扁鵲へんじゃくという。しがない医者の一人じゃ」


「扁鵲殿、此度は助けて下さり感謝します」


 范蠡は身体を起こしながらそう言った。


「あまり動かすな。傷がまた開きますからのう。それにお礼ならば、このお嬢さんに言うと良い」


 扁鵲は近くには、少女がいた。


「このお嬢さんが汝を見つけて必死にわしを連れてこなければ、汝は死んでいただろう」


 范蠡は身体を起こし、少女に頭を下げた。


「感謝する」


 すると少女は扁鵲の後ろに隠れてしまった。


(怖がらしてしまったか)


 そんな范蠡に扁鵲は言った。


「しかしひどい怪我じゃった。いつ死んでも可笑しくなかったが、よくもあ生きてられたものだ」


「まだ、生きてやることがありますから」


「ほう、まだ生きてか……そこまでして何になるのかのう」


「男には何もかもをかなぐり捨てでも、果たさなければならないことがあるのです」


「自分の命でもか」


「はい」


 扁鵲は彼の言葉にため息をつきながら言った。


「まあ、わしは医者だ。人を救うのが仕事であって人の志にとやかく言うのが仕事ではないからのう。しかし、身体が動かねば何もできないだろう。ゆっくり休まれよ」


「わかりました」


 こうしてしばらく范蠡は身体を休めることになった。


 しばらくして、村に呉句卑がやって来た。


「よく私のいる場所がわかったものだ」


「苦労しました。本当に、されど良くぞ生きてくださっておりました」


 彼から呉が完全に楚から手を引き、内部の政治の安定に尽力していることと、太子・終纍しゅうるいが呉都で夫槩ふがいと戦った傷が元で亡くなったことを伝えられた。


「ほう、太子が亡くなったのか」


「はい、呉は新たに太子の息子である夫差ふさが太子に任命されたそうです」


 まだ、幼若とはいえ直系であるという理由である。


「呉にとっては痛いだろうなあ」


「ええ」


 呉句卑はその後に言った。


「実は今、私は越にいます」


「ふむ」


「それで私が范蠡様を見つけた時に伝えてもらいたいと言葉を預かっております」


「なんだ」


「越に来てもらいたいとのことです」


「越にか」


 范蠡は越王・允常いんじょうとは一度も話したこともなければ、呉との戦いで敗れた人物である。


「私は敗軍の将だぞ」


「自分も敗軍の将だと申しておりました。敗軍同士、酒を飲みたいとのことです」


「面白いことを仰る方のようだ」


 范蠡は頷いた。


「仕えるかどうかは別として越に行くとするか」


 彼はそう決めると呉句卑と共に越に向かうことにした。


「そうか越に向かうのか」


「ええ、大変お世話になりました」


「良い、良い。さてわしも行くとするか」


 扁鵲は旅支度を始める。


「あなたはここの人間ではなかったのですか?」


「わしは放浪の医者じゃよ」


「そうでしたか」


「天下の多くの者を救わねばならんのだ」


 そう言って彼は范蠡よりも先に村を出た。


 扁鵲は春秋時代において有名な医者であり、その名は『史記』、『韓非子』にある。しかし彼の活動機関に大いに疑問を覚える記述がされ、『史記』の記述を鵜呑みにすれば、三百年間も生きている人物になってしまう。


 そのため後世の人間は彼を一個人の名ではなく、医学の一派ではなかったのかという説もある。


 元々范蠡が休んでいた家も少女の祖母の家であった。


「世話になったな」


 范蠡はそのように少女に言うが、少女は直ぐに誰かの背に隠れてしまう。


「もし何か困ったことがあれば、私を訪ねよ。必ず力になるだろう」


 最後にそう言って、村を去っていった。やがて少女と意外なところで再会するのだが、それはまた先のお話である。



 

 



 

 


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