楚の文王
紀元前689年
冬、斉の襄公は魯の荘公、陳の宣公、宋の閔公(宋の荘公の子)、蔡と共に衛を攻めた。
衛の恵公を復位させるためである。
この戦いは激戦であったが斉の襄公らは退かず、この戦いは翌年の紀元前688年に続き、
春、周王室の属官。子突が衛を救援しにやってきた。この動きがあっても襄公は攻撃を続けたが依然として衛は陥落することはなく、諸侯たちは苦戦を強いられていた。
更に、周王の軍が衛を助けていたため諸侯の士気も少しずつ下がり始めた。
「なぜ落とせんのだ」
襄公は苛立ちを顕わにする。それに対し、斉の上卿の高傒が進言した。
「ここは王軍と交渉しては如何でしょうか。我らの目的は公子・朔(恵公)を復位させることです。それに対し、理を説けば王軍も納得しましょう」
襄公はそのような回りくどいやり方は好まないが仕方なくこれを許可した。
許可を得た高傒は早速、王軍の元に向かった。
「この度は遠路遥々ご苦労でございました。私は斉公室より、上卿の任を得ております。高傒でございます。この度の戦において周王室より軍を出され、逆臣である衛の二公子の味方を為さるのかお聞かせいただきたく思い参上いたしました」
「公子・黔牟は衛の多くの大夫により擁立された正式な国君であるからである」
「それは異なことを申されます。衛の先君・宣公が正式に後継者とされましたのは公子・朔でございます。大夫の意思のみで後継者が決まるのではなく、その国の国君足る者が任命することでございます」
「周王室では衛の国君は公子・黔牟としている」
「周王室が他国の後継者については言及するようなことはするべきではないのではありませんか。それとも先王・宣王が魯の後継者の問題に口を出したことにより魯で後継者争いが起き、宣王自らが鎮圧しなくてはならなくなったことをお忘れか」
高傒のこの言葉は事実である。これは宣王の時代の話で魯の武公が二人の息子を連れ謁見した。その際、宣王は武公の長男ではなく、次男を後継者にせよと命じた。武公は既に長男に後を継がせると決めていたがそれにより、武公の次男が後を継いだ。長男は失意のうちに亡くなった。これにより、長男の息子が次男のことを恨み次男を殺し自分が即位した。これに怒った宣王は軍を率いて魯を攻め長男の息子を殺した。
このように後継者に関し、周王室であろうとも他国の者が口を出すのは問題であると言ったのである。だがこの言葉は斉ら諸侯にも言えることではある。
「それならば貴公らはどうなのだ」
「我らは衛で正式に後継に選ばれた方を復位なさんとしているだけでございます。言わば、一度曲がってしまった木を矯正しようとしているだけでございます」
その後も説得は続き、六月、その決着が付いた。
衛の公子・黔牟は周に、彼を支えていた大夫・甯跪は秦に追放され、右公子・職及び左公子・洩は処刑された。
諸侯に守られながら恵公はこうして衛君として復位した。
(おのれ黔牟を生かしおって許さん)
恵公はやっと復位した喜びよりもその復位を邪魔した周王室を恨むようになった。
その頃、南方では楚の文王が軍を動かし、申を攻めるため彼は母の故郷である鄧を通った。それを知り、鄧の祁侯が言った。
「彼は私の甥だ。宴を開き持て成そう」
文王の母の鄧曼とは祁侯は兄妹である。そのため彼は文王を持て成そうと思ったのである。
これを止めたのは騅甥、聃甥、養甥の三人、通称三甥である。彼らは楚と戦ったことがあり、そのため楚という国が如何に凶暴な国であるか知っている。そのため彼らは逆に文王を殺すように進言した。だが祁侯はこれには同意しようとしない。
「鄧を滅ぼすのはあの方です。早く手を打たなければ君は必ずや後悔なさります。それ故に今こそが好機なのでございます。楚王を殺しましょう」
彼らは祁侯に詰め寄るように言うが
「そのようなことをすれば国民は私を唾棄し、国の祭祀の食物を食わなくなるだろう」
三甥の一人が嘆いて言った。
「もし君が我々に従わなかったら、我が国の社稷が祭祀を受けられなくなるでしょう。それにも拘わらずどうして食物が残るといえるのですか」
それでも祁侯は文王に宴の件を話した。
「忝いお言葉でございます。されど我々はこれより、申を攻めなくてはならない身。戦の後に参るということに致しましょう」
そう文王はそのまま申に向かって軍を動かした。彼はその途中で傍らの臣下に聞いた。
「鄧は我が国に対して備えをしているか」
「してはいません」
臣下が答えると文王は少し笑うと言った。
「如何なる国でも警戒を怠るべきではない。そうは思わないか」
文王は申を攻めた後、鄧へ向かった。事前に宴に参加することを伝えた。祁侯はそれにより宴の準備を始めたが文王はそのまま兵たちに鄧を攻めさした。警戒をしてなかった鄧は楚軍の前に大敗した。
「これ以上は良かろう。母上の国でもあるしな」
そう言って彼は国に軍と共に帰った。十年後に楚は鄧を滅ぼすことになる。
しかし、ながら他国とは云え、母の国を攻めるという文王という人は冷酷な人である。