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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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死者に鞭打つ

大変遅れました。

 伍子胥ごししょは臣下に火を持たせ、暗い洞窟のようなところを歩いていた。


「ここか……」


 彼の前に大きな柩が現れた。


「ええここが范蠡はんれい殿が言っていた場所です」


 臣下の一人が伍子胥に対し言った。


「ついに仇討ちができる」


 伍子胥の前にある柩には楚の平王へいおうが眠っている。


「しかし、よくもまああの方も見つけたものですなあ」


「うむ、あの方も平王には恨みがありましょうからなあ」


 臣下たちがそのように言うのを聞きながら伍子胥は范蠡の言葉を思い出す。


『伍子胥殿、ついに平王の柩が安置されている場所がわかりました』


『それは本当か』


『ええ、ついに今は亡き太子・建と父上のご無念を晴らす時でございます』


 范蠡の涙ぐむ姿に伍子胥も涙ぐんだ。


鱄設諸せんせつしょ殿、あなたの御子息はご立派になられましたぞ)


 しかもこの復讐の時を范蠡は自分に譲ってくれた。


(心配りのできる男だ)


 いずれはそのことに報いなければならないなと伍子胥は考えた。


 一方、その頃、范蠡は伯嚭はくひと会っていた。


「楚の連中は大層な宝を有していたようですなあ伯嚭殿」


「ええ彼らは強欲な連中ばかりでござったからな。全く忌々しいことこの上ないものですぞ」


 伯嚭は酒を飲み、女を侍らせながら笑う。それに合わせるように范蠡は笑う。


(鏡を見せたいくらいだ)


 彼は内心では毒づいていたが、


「楚の女性は美女ばかりですからなあ。王も大層、お喜びのこととか」


「ええ王は大層、楽しまれておりますのう」


 呉王・闔廬こうりょは楚の宮殿の豪勢さや美女に目を奪われていた。それらを提供していたのは、伯嚭である。そして、そのことを勧めたのは范蠡である。


「折角、王はお喜びであるというのに孫武そんぶなどは小煩いがな」


 そんな呉王・闔廬を孫武は諌めていた。だが、その諫言を中々呉王・闔廬は受け入れようとはしなかった。


「范蠡様、少しご報告があります」


 そこに呉句卑がやって来た。


「では、伯嚭殿。私はそろそろこの辺りで失礼致します」


「おおそうか。そうか」


 范蠡は彼と別れると呉句卑の報告を聞くことにした。聞く前に僅かだが、彼が青ざめていることに気づいた。


「どうした。本当に何かあったのか」


「ええ、少し信じられないことだったものでしたので、実は……」


 彼の話しを聞くうちに范蠡も眉をひそめた。


(そこまでやるのか)


 范蠡が受けた話しというのは、伍子胥が柩から平王の遺体を引きずり出し、その遺体に三百回と鞭に打ったというのである。


 范蠡としては、遺体を晒すぐらいのことはするだろうと思っていたが、まさか死体に鞭を打つという行為に出るとは思わなかった。


(凄まじい復讐心というべきものか)


 そう思うと自分の復讐心などは小さなものに感じる。それに、


(私の復讐相手は悪を成したわけではない)


 平王の行った悪徳に比べれば、天と地ほどの差があるだろう。それでも行うことが自分の復讐である。しかも彼の復讐は呉を一度、最良の時代に持っていき、それを自らの手で崩すというものである。


 子供がまるで積み木を組み、それを崩すような作業と同じと言える。そこにある違いと言えば、業の差であろうか。


 その復讐を行う上で、伍子胥の行ったことはそれは利用できると彼は考える。そのことは呉句卑の青ざめた顔を見るとそのことは理解できる。


 楚の人間にとって王族は神聖な存在である。その神聖な存在の死体に鞭打つような真似は到底想像さえできないはずなのだ。


 それが伍子胥の特異性でもある。


「後悔があるか」


 范蠡は呉句卑にそう問いかけた。


「いえ、後悔などは」


「後悔することを恥じる必要はない。人は後悔しながら歩むものだ」


 范蠡はそのように言いながら歩く。


「後悔などございません。私は私の果たすべき使命を果たすだけです」


「そうか。まあ良い。では、早速汝に任したいことがある」


「何でしょうか」


「この話しを楚全土にばら撒いてもらいたい」












 その頃、楚の昭王しょうおうは雎水を渡り、長江を越えて雲中に入っていた。

 

 昭王が寝ている間に盗賊が襲いかかって。賊の一人が戈で昭王を撃とうとした時、それを見た王孫由于が背を戈に向けて昭王を守り、肩を負傷するなど、辛い道中であった。


 それでも昭王は弱音もはかず、歩き続けていた。彼のその姿は周囲の臣下を鼓舞した。なんせ、昭王はこの時、十五歳ぐらいという若さである。その若さの者の前で弱音を吐くことはできなかった。

 

「すまないねぇ鍾建」


 昭王は季羋畀我を背負っている鍾建を気遣った。


「有り難き言葉でございますが、お気になさらず、それよりも王こそ大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ」


 彼らが向かっている先は鄖である。この鄖に行こうと言いだしたのは、昭王であったのだが、臣下たちは猛烈に反対した。


 何故ならば、鄖を治めている鄖公・闘辛とうしんの父は蔓成然であり、彼を昭王の父である平王が処刑したことがあったためである。その恨みをここで向けてくる可能性がないとは言えなかった。


 それでも昭王は鄖に行くことにした。子西しせいが昭王の意見を尊重したことも大きい。彼は闘辛のことをよく知っており、そのような真似をする男ではないと知っていたのである。


 さて、鄖公・闘辛は楚都陥落の後、情報収集に努めていた。


 彼が情報収集した中には、呉軍が楚都・郢に入った時の話しが伝わっていた。


 呉軍が入ってきて、将たちの官爵の尊卑に応じて王宮の部屋が分けられることになった。子山しさん(闔廬の子)が令尹の宮室に入ったが、夫槩ふがいが彼を攻撃しようとしたため、恐れて去り、夫槩が令尹の宮室に住んだというものである。

 

 闘辛は、この呉軍が宮室を争ったと聞き言った。


「『譲らなければ不和となり、不和ならば遠征できないものだ』という。呉人は楚で争ったために必ずや乱が起きるだろう。乱が起きれば必ず帰ることになる。呉が楚を定めることはできないはずだ」


 呉が楚を長く治めることはないと考えた。しかし、それはあくまでも昭王が呉に囚われていないことが前提である。


 そんな中、昭王がこちらに向かっているという話しが伝わった。闘辛は彼を守ろうと考えていたが、問題はそれを反対し、それどころか昭王を殺害しろと主張する弟の闘壊とうかいの存在である。


 彼は父の仇討ちのために昭王殺害を兄に勧めていた。


「かつて平王は我が父を殺したではありませんか。我々がその子を殺して、何がいけないというのですか」


 そんな彼に闘辛は、


「国君が臣下を討ったのだ。誰がそれを讎とできると言えるのか。君命は天命と同じことである。天命によって死んだにも関わらず、誰を讎とするのだ。『詩(大雅・烝民)』にはこうある『柔らかくても呑み込まず、硬くても吐き出さず。弱者を虐げず、強者を畏れない』これは仁者にできることである。強者(父を殺した時の平王)を避けて弱者(敗戦した昭王)を凌辱することは非勇だ。人の苦境につけ入るのは非仁だ。宗を滅ぼし祀を廃す(国君弑殺の罪は宗族皆殺しに当たる)のは非孝である。行動に令名(美名。大義名分)が無ければ非知(明智ではないこと)だ。汝がそうするというのなら、私は汝を殺さなければならない」


 と言って、その暴挙を抑えた。


 しかしそれでも闘壊は中々理解しようとせず、闘辛は昭王を迎え入れた。


「王、ご無事で何よりでございます」


 闘辛は大いに彼と臣下たちをおもてなしした。そんな中、闘辛の元に闘壊が近づき言った。


「兄上、呉が近くまで来ている」


「なんだと」


「早く王を連れ、逃げよ」


 意外な言葉である闘壊は昭王の死を望んでいるはずなのだ。


「それが兄上の正義なのだろう。私は父の子として王の傍にいるわけにはいかない。されど兄上、あなたは忠を示せ、私は孝を示す」


「わかった」


 こうして、闘辛はもうひとりの弟の闘巣とうすうと共に昭王を連れ、随に逃れることになった。


 その間の時は闘壊が呉相手の時間を稼いだ。


 昭王ら一行が随にたどり着いて、ここで伍子胥による鞭打ちの件が伝わった。



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