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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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楚都陥落

遅れました。毎日更新できず申し訳ありません

 楚の都・郢に激震が走った。


 呉を撃退するために動いた楚軍のほとんどは壊滅し、令尹・子常しじょうは鄭に逃げ、沈尹戌しんいんじゅつは戦死したという報告が持たされたためである。


 楚の宮中はこの報告に混乱し、収集が付かなくなっていった。


 郢で抵抗しようと考える者も多かったが、現実的ではなかった。されど感情的な人間の多い楚だけに戦わずに逃げることを選択枝に入れる者は少なかった。


 そんな中、楚の昭王しょうおうは、


「逃げよう」


 と言った。宮中は彼の発言にも驚いたが、子西しせい子期しきといった面々は、


(助かった)


 と口に出すことはないものの、皆、そう思った。


 彼らは郢で呉と戦っても勝機はほとんどないだろうと考えていた。しかし、それを口に出すことは楚の人間としてできなかった。いや、その勇気を彼らは有していなかったとも言えなくはない。


 しかし、昭王がそれを言ってくれたため、発言しやすくはなった。何より、楚では王の言葉は神聖なものである。その言葉に敢えて、逆らう者は少ない。


「王のお考えに従います」


 こうして昭王は一部の臣下と妹の季羋畀我と共に郢から逃走した。


「楚王がいないだと」


 昭王が逃走を図ってから、そのことが呉軍に伝えられた。


「一刻も早く楚王を捕らえるべきです」


 伍子胥ごししょの進言に呉王・闔廬こうりょが頷く。


「そうだな。孫武そんぶ、追撃部隊の編成を頼むぞ」


「承知しました」


「まあ今更、敵を前にして逃走するような者についてくる者がいるとは思えんがな」


 呉王・闔廬はそう言って笑った。それを孫武は黙ったまま拝礼した。彼は内心では昭王に対しての認識を変えた。


(ただのお飾りではないのかもしれない)


 彼は昭王が逃げの一択を持って、郢から逃走を図った昭王の思いっきりの良さを彼は内心、褒めた。そもそも郢で呉と相対するのは、中々にきつい。ただでさえ、他国の救援を望めない状況であるだけ、ここで迎え撃つよりは何処かへ逃れる方が勝率が上がるだろう。


(それに楚王が無事であると楚の国民全員が思えば、いらない希望を楚にもたらしてしまう)


 有能とは言えない子常が昭王の傍にいれば、こんな状況が起こらなかったかもしれない。


(そこまでは考え過ぎかも知れないがな)


 孫武は各部隊に昭王を追跡のために編成を行い、呉は郢に入った。










 郢を脱出した昭王一行は睢水を渡ろうとしていた。


「船とはこれほど揺れるのだな」


 昭王は共に船に乗っている鍾建に対し、あたりを見渡しながら言った。彼は船に乗ることは始めての経験である。


「あまり動かれては落ちてしまいますぞ」


 鍾建がそうたしなめるが彼はやめようとはしなかった。そして、睢水を渡りきると、呉の追撃の兵が現れた。


「先回りされていたのか」


「相手には孫武という策略家がいるらしいからな」


 昭王一行はこの場を切り抜ける術を考え込んだ。すると昭王は話しの輪に入らず、珍しいものを見つけた。


「わあ、大きいなあ」


 彼が見つけたのは、象である。


 かつて商の時代には中原にも象がいたと言われ、この春秋時代においては長江流域に象が生存していたと言われている。


「象か。ならば、やつらに象をぶつけるというのはどうだ?」


「どうやってぶつけるというのか」


「象の尾に火を点け、ぶつければどうだ」


「なるほど、それならば……」


 昭王が見つけた象で皆、呉への対抗策を考えあげた。


「王、どう思いますか」


「それでいこう」


 昭王はにこやかに答える。


 彼らは昭王の許可を得ると早速、象の尾に火をつけ、呉軍に向けて突撃させた。突然、巨体が突撃を仕掛けたため、その対応に追われた呉軍の追撃が一時止まった。


「王、今のうちに逃げましょう」


「うん、その前に馬を捨てよう」


 昭王は臣下たちにそう言った。


「馬をですか。流石に危険ですし、貴重な我々の足ですぞ」


 と皆、反対する中、申包胥しんほうしょが賛同した。


「馬を捨てるなど、相手も考えていないことだ。別方向に馬を駆けさせれば、相手の気を惹かせることができるかもしれない」


 彼の意見により、馬を敢えて捨てることで彼らは逃走を図った。


 彼らの逃避行は続く。







 郢に入った呉軍は浮かれていた。呉軍は郢に入るや、住民たちへの略奪を行ったのである。


 孫武はそれに厳罰を持って、処罰し対処を行っていたが、中々収まることはなかった。そもそもこの呉軍の気の緩みは、兵士たちではなく将の間でも広がっていた。


 呉王・闔廬を始め、大夫たちが楚の女たちを自分たちの者にするなどが行っていたのである。孫武がどれほど兵士たちを抑えようとしても指揮する者たちがこれでは、抑えることなど無理なことであった。


 また、いつもは孫武の味方であろうとする伍子胥と言えば、彼は郢に入ってから必死に何かを探していた。


 その状況を静かに眺めるのは范蠡はんれいである。


(今、呉は最良の時代を迎えようとしている)


 彼は呉が絶頂期を迎えていることを自覚していた。


(だが、それは同時に最悪の時代と紙一重であるということでもある)


 この状況を見れば、彼ならばわかることでもあった。そんな彼の者に珍客が来た。


「ほう、確か汝は沈尹戌の元にいた」


「呉句卑でございます」


 沈尹戌の首を持って逃走した男である。


「何故、ここに来られたのでしょうかな」


「あなた様は、沈尹戌様のご家族に沈尹戌様の遺体を丁重に葬られたことを伝えるようお命じになられました。ならば、報告がされたのかどうかをお知らせするべき参上致しました」


「律儀な男だ」


 范蠡は久し振りに笑い、ふと最後にこんな風に笑ったのは、いつだっただろうかと思った。


「律儀な方よ。本来であれば、汝を捕らえればならない。しかし、先の言は大いに良いと思えた。もし、汝が何かを望むのであれば、私の可能限り叶えるが」


「私の望みはあなたに仕えることです」


「ほう、理由を聞いても良いかな」


「あなた様に大志があるからでございます。その大志は……」


 その瞬間、呉句卑の喉元に剣が向けられた。


「それ以上、仰ると汝を斬らねばならない。死にたいとでも言うならば、良いがな」


「もし、私が伍子胥殿が探しておりますものを知っているとしてもですか?」


 范蠡の剣が喉元にあるというのに、彼は動揺することなく言った。


「ほう、それは面白いことを聞いた」


 范蠡はそう言って、剣を下ろした。


「では、話しを聞こうか」





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