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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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沈尹戌

また、遅くなってしまいました。

「何、子常しじょう殿が呉に破れただと」


 沈尹戌しんいんじゅつは別働隊を率いて、呉の退路である大隧、直轅、冥阨を抑えに動き、呉を背後から襲おうとしたが、そこに子常が破れたという報告が届いた。


「あれほど、言ったというのに……」


 敗れた子常に対して、呉は未だ大軍であり、沈尹戌の軍を少数。とても呉に勝てるような状況ではなかった。


 一方、呉は敗残の楚軍に追撃を掛けていた。


 楚軍が休憩や食事を取ろうとすると呉軍が現れ、襲いかかるといったことを繰り返しながらボロボロになりながらも逃げ続けるというのを繰り返していた。


 呉軍の嫌らしさは適度なところで追撃を止め、相手に逃げる余裕を与え、追い詰めすぎないようにしていた。


 全て孫武さんぶの策である。


 そんな呉も後方にいる沈尹戌の存在を知った。


「沈尹戌は勇猛果敢な人物であり、名将です。ここは降伏を呼びかけましょう」


 呉王・闔廬こうりょに孫武はそう提案をした。これに反対したのは、意外にもいつも孫武のやり方を支持する伍子胥ごししょであった。


「孫武殿、彼は早々に降伏するような男ではないし、自尊心の強い男だ。変に降伏を呼びかけると彼の自尊心を刺激しかねない。相手の兵は少数であることからここは無視してはいかがか?」


「後方に敵を要したまま進軍するのは危険です。それに彼は名将です、兵数の差のことは嫌でもわかりましょう」


 孫武は万全を期したいと考え、後方の敵を被害も出さずに処理したいと考えている。すると范蠡はんれいが意見を述べた。


「降伏を呼びかけるのであれば、先ずは前方の楚軍を壊滅させるべきです。壊滅させてから降伏を呼びかけた方が、よろしいのではないのですか」


 范蠡としては降伏を呼びかけるのであれば、失敗することも前提に考えるべきだと思っている。もし失敗して沈尹戌がこちらに襲いかかるようであれば、前後を挟まれる形になってしまう。


 それは孫武としても望んではいないはずである。


 呉王・闔廬は彼らの意見を聞きながら悩んだ。


「降伏を彼に呼びかけてみるか。伯嚭はくひよ。使者として沈尹戌の元に出向き、降伏を呼びかけよ」


「承知しました」


 こうして呉は雍澨(川の名。または清発川の西の地域)で駐屯して、沈尹戌の元に伯嚭を向かわせた。


 呉から使者が来たと聞き、沈尹戌は出迎えた。


 今の彼には三種類ほど選択枝がある。


 一つは呉と戦うこと、これは兵数の差があって、戦ったどころで犬死が精々と言える。


 二つ目は降伏すること、これがもっとも兵もこの場の問題を解決する上で一番と言える。しかし、楚の人間として呉に屈服したくないという思いがあった。


 三つ目は楚都に遠回りとはいえ逃れること、しかしこれは楚都にたどり着く前に楚都が陥落する可能性も高かい。


(どれを選んでも悪夢であろうな)


 この状況に追い込まれた時点で勝負は決まっていることを誰よりも理解できていた。


「呉の使者が何用でしょうかな」


「降伏をお勧めに参りました」


 何を言っているのかという表情を浮かべながら伯嚭は答えた。


「なるほど、しかしまだこちらにも兵がおりますぞ」


「されどこちらとあなたの兵の数は圧倒的に差がございます。犬死するよりも潔く降伏された方がよろしいのでは?」


 上から目線で伯嚭は話す。その様子に沈尹戌としては呉は使者の人選を間違えているのではないかと思った。


「それに今、我が軍の前方にいる連中も虫の息です。もはや勝てる見込みはないでしょう」


 ここで彼は口を滑らしたと言っていいだろう。沈尹戌はここには来たばかりで呉の前方の味方について知らんかった。


(今、呉の前方に味方がいるのか)


 沈尹戌の頭に呉の攻撃によって苦しまれている味方の姿が思い浮かぶ。


 ここで彼には新たな選択枝が生まれたと言っていいだろう。


「呉の使者よ。帰って伝えよ。戦場で会おうぞと」


「なんと、犬死になりますぞ」


「犬死か……」


 沈尹戌は彼の言葉ににやりと笑った。


「本望ではないか」


 彼はそう言って、伯嚭を叩き出した。その後、彼は兵を集めた。


「諸君、私はこれから呉に戦を仕掛ける。兵の数は圧倒的に我々の方が少ない。無謀であると思うものもいるだろう」


 沈尹戌は兵たちを見回しながら言う。


「だが、今悪しき呉に苦しめられている我らの同志が、民がいる。彼らが呉に苦しめられているのを見捨てることができるだろうか。否、できない」


 彼は拳を握り締めて言う。


「確かに今、楚は滅亡の瀬戸際にいる。されど、まだ滅亡したわけではない。楚は未だ滅亡してはいないのだ」


 彼の言葉を兵たちは静かに、真剣に聴く。


「楚は必ずや呉に勝つ。だが、そのためにも今、呉に苦しめられている味方を救う必要がある。彼らを救い、彼らに楚の未来を託したい。そのためにも諸君、我々は命を捧げねばならない」


 最後に彼は皆に頭を下げる。


「強制はしない。だが、共に死んでれないか」


「我らの答えは決まっております」


 兵士の一人が声を上げ、足で地面を踏み鳴らし、答える。


「将軍と共に、楚の未来のために我々は命を捧げましょう」


「良くぞ、言った。では、諸君、呉と決戦を行う」


 沈尹戌が剣を掲げるや、兵士たちも剣を掲げ、彼らは呉に進軍を開始した。





「沈尹戌が来るとは」


 孫武は沈尹戌がこちらに向かってくると知ると舌打ちをする。


「王よ。私の言ったとおりに兵を配置してください」


 彼はそう言って、兵の配置を細かく指示し始めた。孫武の指示により、呉は堅固な陣形を組み始める。


「どんな陣形を組もうとも、我らは挑むまでだ」


 だが、沈尹戌はその動きを一切気にせず、呉の陣に突撃を仕掛けた。このあまりにも躊躇の無い突撃に呉軍は混乱した。


「全将軍に兵の動揺を抑えるように指示を出してください。兵の数はこちらが上なのです。しっかりと包囲すれば、勝てます」


 孫武は呉王・闔廬に進言、呉王・闔廬は頷き彼の言うとおりにする。


 これにより呉は冷静になり始め、沈尹戌の軍を包囲していく。


「包囲か。ふん、関係ないわ」


 だが、沈尹戌の猛攻は止まらない。彼らは一箇所に集中的に襲い掛かり、包囲を崩しにかかる。これに呉側が対応しようとすれば、それによって生じる隙に彼らは突撃を仕掛けるなど、中々彼らの動きを呉軍は止めることができないでいた。


 しかし、それでも彼らの数は確実に減っていた。だが、彼らの士気は下がらない。


「徹底的に暴れよ。楚の戦士の生き様を恐怖を植え付けてやれ」


 沈尹戌は叫びながら矛と剣を振るう。彼も矢など多くの傷を受けていた。しかし、されでも彼は止まらない。この鬼神じみた動きに流石の呉兵も恐怖を覚えていく。


「孫武殿、包囲にするのではなく、確実に仕留めるために突撃を仕掛けましょう」


 范蠡がそう進言するが、孫武は同意しない。


「それでは被害が大きくなりすぎます」


「被害はこのままでも大きくなります。多少の被害を考慮してでも、相手を潰すべきです」


 范蠡はこのまま包囲を続けて被害が出続けるよりは、確実に仕留めに行くほうが被害の度合いが一瞬で済むと考えたのだ。


「確かに、わかりました。全軍に一斉攻撃を指示してください」


 孫武の指示により、呉軍は一気に沈尹戌の軍に襲いかかった。流石にここまで暴れてきた疲れに呉軍の数の前に崩れ始めた。


 それにより、沈尹戌は後退を始める。


「前方の味方はどうか」


「先ほど、知らせが来ました。呉の追撃が鈍り、撤退することができているとのことです。


「そうか。良かった。だが、一人でも多くの楚の者を救わねばな」


 沈尹戌の身体は既に至るところに切り傷があり、大量の血を流していた。しかし、彼はそんな身体でありながら呉に向かって駆け出す。兵たちも彼の後を続く。


「敵は不死身というのか」


 呉兵は恐れ、後退していく。


「下がるな。不死身な者などいない」


 だが、そこに伍子胥が援軍としてやってきて兵を鼓舞する。


「伍子胥か」


 援軍が伍子胥だと知り、沈尹戌は笑う。


「本懐である」


 彼は矛を振るい、矛が折れるや剣で相手を切り裂いていく。


「将軍、これ以上は」


「下がるわけにはいかない」


 だが、彼の身体も限界が近づいていた。


「ここまでか」


「将軍、味方は退却できたそうです」


「そうか」


 彼はその報告を受け、周りを見渡す。そこには数人ほどの兵しかいなかった。


「皆、勇敢な死を遂げたか」


「ええ」


「最後に私のわがままを聞いてくれるか」


「何でしょうか」


「私の首を呉から逃れさせることができる者はいないだろうか。この首が呉に渡るのは惜しいのでな」


 沈尹戌は自分の首を撫でながら言う。

 

 すると呉句卑が進み出て言った。


「私は卑賎ではございますが、宜しいでしょうか?」

 

「私は汝の才は今まで知らなかったが、問題ない。皆は彼と協力して戦場から逃れよ」


 そう言うと彼は首に剣を当てて、切り裂いた。


 血が飛び出るが彼の身体は倒れることなく、立ったままであった。


 呉句卑は、


「見事な死に様でございます」


 と彼の死を見届けると、その首を切り、自分の裳(服の下半身部分)で包み、仲間と共にバラバラに散らばった。









 范蠡は戦が終わった後、生き残りがいないか。調査を行っていた。そんな中、呉の兵が動揺しながら集まっているのを見つけた。


「どうした」


「あっ范蠡様。実はこれを見てください」


 兵が指さした先には首が無く立ったままの死体があった。異様な光景と言えた。


「鎧の感じから沈尹戌かもしれませんね」


「ほう、そうか」


 范蠡は立ったままになっている彼の遺体に近づいた。


(孫武殿たちの軍略を前にこの男一人の膝を屈することさえできなかったか)


「遺体は丁重に葬れ、良いな」


「御意」


 そこに一人の兵士がやってく来た。


「報告します。一人怪しい人物がおりました」


「連れて参れ」


 すると連れてこられたのは、呉句卑であった。


「汝は沈尹戌の部下か?」


 范蠡がそう尋ねたが、彼は答えようとしなかった。


「首はどこにやったのか?」


 これも答えない。


「では、汝は沈尹戌の家族を知っているか」


 それも答えようとしない。されどそんな彼を無視して范蠡は言った。


「ご家族にお伝えくだい。沈尹戌の遺体はこちらで丁重に葬ったと、さあこの方を開放せよ」


 范蠡は呉句卑を開放した。


 呉句卑は頭を下げ、そのまま立ち去った。


「よろしいのですか」


 兵士が尋ねたが、


「死んだことが確かであれば、問題あるまい」


 范蠡はそう言って、その場を立ち去った。


 呉は楚においてもっとも大きな防壁を崩し、後は楚都にまで進むだけであった。



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