召陵の会
遅くなりました。
紀元前506年
三月、楚討伐を謀るために周の劉狄と晋の定公、魯の定公、宋の景公、蔡の昭公、衛の霊公、陳の懐公、鄭の献公、許君、曹の隠公、莒君、邾君、頓君、胡君、滕君、薛君、杞君、小邾君および斉の国夏が召陵で会した。
周が参加しているのは楚が王子・朝を援けたためである。
晋の荀寅が昭公に賄賂を求めたが、拒否されたため、士鞅に言った。
「国家が危機に臨んでいるというのに、諸侯は二心を抱いています。このような状態で敵と戦うのは困難でしょう。今は水潦(大雨)が降ったばかりであり、疾瘧(疫病。伝染病)が発生し、中山(鮮虞)も服していません。更に楚との盟を棄てて怨みを取れば、楚に損害を与えることはなく、逆に我々が中山を失うことになるでしょう。蔡君の辞(楚討伐の願い)は辞退するべきです。我が国は方城の役以来、楚で志を得たことがありません。ただ勤(労)を招くだけのことです」
蔡は既に人質まで送って楚討伐を請うていたが、結局は荀寅の進言により拒否された。
「何が諸侯の盟主か」
昭公は大いに憤り、彼は別の手段を取ることにした。
晋人が鄭に羽旄(旗の装飾)を貸すように要求し、鄭人は同意した。
翌日、晋がその羽旄をつけた旆(旗)をもって会に参加した。
それを見ていた諸侯は晋への信頼が無くなった。
会が始まる前に衛の大夫・子行敬子が霊公に言った。
「会はまとまることはなく、論争も収まらないでしょう。祝佗(大祝・子魚。史鰌を従わせるべきです」
子魚は弁論に長けており、誠実な人物として有名であった。
霊公は同意し、子魚に会の参加を命じた。
だが、子魚は辞退した。
「私は四体(四肢)を展じて(職責を果たすために尽力するという意味)旧職(先祖代々の職)を守っておりますが、それでも任務を果たすことができずに刑書を煩わせる(罪を得る)ことを恐れております。もし二職に従事することになれば、大罪を招くでしょう。祝とは社稷の常隸(社稷の神に仕える賎臣)でございますので、社稷が動かなければ祝も国境を出ないのが職官の制度でございます。国君が軍を率いて遠征する際は、社を祀り、釁鼓(犠牲の血で鼓を塗ること)してから、祝も社主を奉じて軍に従い、国境を出ることができましょう。しかし嘉好の事(朝会)に国君が参加する時は師(兵二千五百人)が国君に従い、卿が参加する時は旅(兵五百人)が卿に従うものであり、私が参与することではございません」
されど霊公は子魚の意見を聞かず、会への参加を強制した。
皋鼬で盟を結ぶ時、周と晋は蔡を衛の前に置いて歃血(犠牲の血をすするか口の横に塗る儀式)させることにした。
それを知った霊公は子魚を派遣して個人的に周の萇弘に問わせた。
「道中で聞いたことですが、蔡を衛の前にするというのは本当でしょうか?」
「本当です。蔡叔(蔡の祖)は康叔(衛の祖)の兄だからです。蔡を衛の前に置いて問題があるでしょうか?」
これは口実で、実際は楚に従っていた蔡が晋に帰順し、蔡を厚遇する必要があった。また、蔡による楚討伐の請願を拒否したため、蔡の不満を抑える目的もあった。
子魚はこれに対し、周王朝が年功序列で国の序列を決めたわけではないとして反論した。
「先王の前例によれば、先王が尊んだのは年齢の序列ではなく徳の有無であったはずです。昔、武王が商に勝ち、成王が天下を安定させてから、明徳を選び、分封して周の藩屏とされました。だから周公(旦。魯の祖)が王室を補佐して天下を治め、諸侯を周と和睦させることができたのです。そこで魯公(伯禽。周公・旦の子)に大路(金路。馬車)と大旂(大路に立てる龍旗)、夏后氏の璜(夏王朝の玉器)、封父の繁弱(封父は夏代に存在した国の名。繁弱は良弓の名)および殷民六族である條氏・徐氏・䔥氏・索氏・長勺氏・尾勺氏を下賜し、彼等に宗氏(大宗。本家)を率いさせ、分族(小宗。分家)をまとめさせ、類醜(六族の奴隷)を統率して周公の法に服従させたのです。こうして魯は周の命に従い、彼等が魯で職務を行うことで、周公の明徳が明らかにされました。また、魯に土田倍敦(附庸の小国)と祝(太祝)、宗(宗人)、卜(太卜)、史(太史)および備物(衣服器物)、典策(典籍簡冊)、官司(百官)、彝器(宗廟の祭器)を与えられました。商奄(商代の国の名。西周初期に反旗を翻した)の民を慰撫してからは、『伯禽(書名)』によってその民を訓戒し、少皞の虚(少皞の古城。魯都・曲阜)に封じられたのです」
先ず、魯に与えられたものを述べ、次に衛に与えられたものを述べる。
「康叔(封。衛の祖)には大路、少帛(帛布)、綪茷、旃旌(綪茷と旃旌は旗)、大呂(鐘の名)と殷民七族である陶氏、施氏、繁氏、錡氏、樊氏、饑氏、終葵氏を下賜致しました。衛の封畛土略(国土。国境)は武父以南から圃田の北境におよび、有閻の土地を得て王の職を勤め、相土(商王朝の先祖)の東都(商丘)を得て王の東蒐(東方の狩猟。巡視)を補佐させました。聃季(周公の末弟。冉季戴。司空)には土地を授け、陶叔(曹叔振鐸。司徒)には民を授けて『康誥(尚書の一篇)』で訓戒し、殷虚(商殷の古城)に封じられました。皆(康叔・聃季・陶叔)、商の故地において、商の風俗に則って政治を行い、周の制度に従って領土を定められた」
次に晋に与えられたものを述べる。
「唐叔(虞。晋の祖)には大路と密須(国名)の鼓、闕鞏(国名。ここでは闕鞏の甲冑)、沽洗(鐘の名)と懐姓九宗(旧唐国の遺民。一説では狄に属する隗姓の一支)、職官五正(五官の長)を与え、『唐誥(書名)』によって訓戒し、夏虚(夏代の古城)に封られました。夏の故地において夏の風俗に則って政治を行い、戎の制度(遊牧生活)に従って領土を定められたのです」
こうして魯、衛、晋の始祖たちには共通点がある。
「この三者は全て叔(弟。周公・康叔・唐叔とも武王か成王の弟)ではございますが、令徳(美徳)があったおかげでこれらの物を与えられてその徳が明らかにされたのです。文王・武王・成王・康王の伯(周公・康叔・唐叔より歳上の兄弟)はたくさんおられましたが、彼等に下賜されなかったのは、年齢を貴んだのではないからです。管叔と蔡叔は商人を誘い、王室を犯そうとしました。だから王は管叔を殺し、蔡叔に車七乗と徒(奴隷)七十人を与えて放逐したのです。その子・蔡仲は行いを改めて徳を守りましたので、周公が抜擢して自分の卿士に任命し、王に謁見させました。その結果、天子が蔡に封じたのです。その命書にはこう書かれました。『胡(蔡仲の名)よ、汝の父のように王命に違えるようなことをしてはならない』」
始祖の兄たちを差し置いて、国を与えられたのは、全て徳があったからである。
「このような前例があるにも関わらず、なぜ蔡が衛の前なのでしょうか。武王の同母弟は八人おり、周公が大宰に、康叔が司寇に、聃季が司空になりましたが、他の五叔(五人兄弟)には官がありませんでした。これは年長者を貴んだからでしょうか。曹は文王の昭(文王の子)であり、晋は武王の穆(武王の子)でございました。しかし曹は伯甸(甸服の伯爵)でございますので、年長者を尊んではいません」
後輩の晋は侯甸で、侯爵であるため伯爵の曹より上になる。
「もしも今になって年長者を尊むようになれば、それは先王に背くことになります。晋の文公が践土で盟した時、衛の成公は不在でございましたが、同母弟の夷叔が蔡の前にいました。その載書にはこうあります。『王が宣言した。晋重(重耳。文公)、魯申(釐公)、衛武(叔武)、蔡甲午(荘公)、鄭捷(文公)、斉潘(昭公)、宋王臣(成公)、莒期(茲丕公)。(参加者の序列を述べるだけで、盟約の内容は省略する)』これは周府に保管されておりますので、調べることができます。あなたは文王・武王の略(道。法度)を回復しようとされているにも関わらず、その徳を正そうとせず、どうするおつもりでしょうか」
萇弘はこの諫言に納得し、劉狄に報告してから士鞅と相談した。会盟では衛が優先されることになった。
召陵の会が終わり、その帰る途中で、鄭の子大叔が死んだ。
晋の趙鞅が弔問し、哀哭して言った。
「黄父の会で彼は私に九言を贈ってくださった。『乱を起こさず、富に頼らず、寵に頼らず、共通の願いに背かず、礼がある人に対して傲慢にならず、己の能力を誇らず、一つの事に対して何回も怒らず、非徳な事を図らず、非義なことを犯すことなかれ』と」
子大叔は偉大なる先人であった子産の影に隠れているものの、彼もまた優秀な人物であったと言え、趙鞅の言葉は子太叔の徳を表したものであった。
沈人が召陵の会に参加しなかったため、晋は蔡に討伐を命じた。蔡からすれば、自分たちの願いを叶えないくせに自分の意向は反映しろという晋は大いに気に入らなかったが、晋の要請に同意した。
四月、蔡の公孫姓(姓が名。または「公孫帰姓」)が軍を率いて沈を滅ぼし、沈君・嘉を捕えて帰り、彼を殺した。




