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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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季孫意如

 紀元前509年


 正月、晋の魏舒ぎじょが諸侯の大夫を狄泉に集めて成周城増築を始めた。魏舒が指揮をとる。

 

 衛の彪傒は、


「天子の居城を建てるにも関わらず、位を変えて令を出している(前年、卿でありながら国君の場所に立って諸侯の大夫に命令した)。これは非義である。大事を成すにも関わらず、義を犯せば必ずや大咎を受けるものだ。晋が諸侯を失わないとしたら、彼が禍を受けるだろう」

 

 魏舒は韓不信かんふしんと周の大夫・原寿過げんじゅかに後を任せると、自分は大陸(地名)に狩りに行き、薮沢の草木を焼いた。


 草木を焼くのは狩猟のためで、火で動物たちをおびき出すのである。

 

 ところが帰還する途中の甯(地名)で彼は死んでしまった。

 

 急遽、魏舒の代わりに政治を行うことになった士鞅しおうは、魏舒の棺から柏椁(柏で作った外棺)を除いた。


 成周城修築の任務を終える前に狩猟に行った魏舒を懲らしめるためである。

 

 魏舒の死後、その子・魏侈ぎた(魏曼多)が継いだ。

 

 魯の仲孫何忌ちゅうそんかきが成周城の増築に参加し、栽(板築。板を組み合わせてその間に土を盛る工程)の担当となった。

 

 宋の仲幾ちゅうきが晋の命に従わず、言った。


「滕、薛、郳(小邾)は我が国の役である」

 

 これら三国は代々宋に服してきたため、今回も三国が宋の代わりに労役に従事するという意味である。

 

 これに対して薛の宰が抗議した。


「宋は無道でございますので、我々小国と周の関係を断たせ、我々を楚に従わせました。だから我々は(晋に従うことができず)常に宋に従ってきたのです。しかし晋の文公ぶんこうは践土の盟でこう申されました。『我々と同盟する全ての諸侯は旧職を復せ(諸侯は周の天子に仕えよ)』と、この践土の盟に従うとしても(周王に従うとしても)、宋に従うとしても、我々は晋の命を聞くだけです」

 

 仲幾はこれに、


「践土の盟では元々宋に従うことになっている」

 

 と言った。践土の盟は「旧職を復せ」と命じており、宋はこの「旧職」を宋に従うことだと解釈していたのである。

 

 薛の宰はこう反論した。


「薛の皇祖・奚仲けいちゅうは薛に住んで夏王の車正となりました。その後、奚仲は邳に遷りましたが、仲虺ちゅうき(奚仲の子孫)が薛に戻って湯(商王・成湯)の左相となったのです。もし旧職に復すのだとすれば、王の官に任命されるべきであり、なぜ諸侯の役に従事しなければならないのでしょうか」

 

 仲幾は、


「三代(夏・商・周)はそれぞれ異なる。薛が旧を得ることができるというのか(周代に夏代や商代の職を得ることができるというのか)。今は宋の役に従うことが、その職である」


 と言い、両者共に譲らなかったため晋にどちらが正しいか判断を仰いだ。

 

 彼らの主張を聞いた晋の士彌牟しびぼうは、


「晋の従政者(執政官・士鞅。または築城の指揮をとる韓不信)はまだ新しい(士鞅は魏舒を継いだばかりで、韓不信は卿になったばかりである)。汝(仲幾)はとりあえず晋の命を受けて帰られよ。私が故府(古い資料が管理された場所)で調べてみよう」

 

 仲幾は、


「あなたが忘れたとしても、山川鬼神が忘れると思いましょうか?」

 

 と言ったため怒った士彌牟は韓不信に報告した。


「薛は人(故事)を使って説明していたが、宋は鬼神を使いました。宋の罪は大きいと言えましょう。自分に反論の言葉が無くなると、鬼神を使って我々を圧しようとした。これは我々に対する誣(欺瞞)である。『寵を与えて侮りを受ける』とはまさにこのことだ。仲幾に罰を与えるべきです」

 

 三月、晋が仲幾を捕えて京師に送った。

 

 城は三旬(三十日)で完成し、諸侯の戌兵(守備兵)が帰された。

 

 これに斉の高張こうちょうが遅れてきたため、諸侯の労役に参加できなかった。

 

 晋の女叔寬じょしゅくかんが言った。


「周の萇弘ちょうこうと斉の高張は禍から逃れられないだろう。萇叔は天に背き、高子は人に背いた。天が壊そうとしているものは、誰も支えることができないものだ。大衆が行わなければならないことは、誰も逆らってはならない」

 

 敬王を成周に遷して周の延命を求めたのは萇弘である。天が周を滅ぼそうとしているにも関わらず、萇弘が延命を図ったとして、天に背いたと見なされたのである。

 

 高張は諸侯の取り決めに間に合わなかったため、人に背いたことになる。

 

 

 

 夏、魯の叔孫不敢しゅくそんふかん叔孫婼しゅくそんしゃくの子)が昭公しょうこうの霊柩を迎え入れるため、乾侯に行くことになった。

 

 季孫意如きそんいじょが彼に言った。


「子家子はしばしば私と話をしたことがあり、いつも私の志(意思)から外れることはなかった。私は彼を政治に参与させたいと思う。あなたは彼を必ず留めよ(逃亡させるな)。彼の命(意見)を聞け」

 

 しかし子家羈は叔孫不敢に会おうとせず、哭礼の時間をわざとずらした。


 古代の葬礼では、朝と夜に中庭の北面で哀哭することになっていたが、子家羈だけは早く行くか遅く行ったようである。

 

 叔孫不敢は子家羈に面会を求めたが、子家羈は拒否した。


「私はあなたに会う機会がないまま(当時、叔孫不敢はまだ卿になっていないため、二人は会う機会がなかった)、国君に従って国を出ました。国君は命を残さず薨じたましたので(叔孫不敢に会うように命じることなく死んだので)、会うことはできません」

 

 叔孫不敢が使者を送って伝えた。


公衍こうえん公為こうい(どちらも昭公の子)が我々群臣を国君に仕えさせなかったのです」


 公為は季孫氏を排斥しようとした人物であるから、叔孫不敢の言葉は偽りである。季孫意如が昭公の子を国君に立てたくなかったため、二人に罪を着せた。


「もしも公子・そう(昭公の弟)が社稷の主となるならば、それは群臣の願いです。国君に従い、国を出た者の中で、誰の帰国を許すかは、あなたの意見に従いましょう。子家氏には後代がいないため、季孫はあなたを政治に参与させたいと思っています。これらは全て季孫の願いであり、私を使って伝えさせたのです」

 

 子家羈はここまで言われても従うことはなく、昭公に従っていたものたちを集め言った。


「国君を立てることに関しては、卿士も大夫も守亀(卜いの亀)もいるため、私にはわかりません。国君に従った者の中で、表面だけ従って国を出た者は帰国しても構わない。季孫氏と寇(敵)となって国を出た者は、去っても構わない。国君は私が国を出たことを知っていても、帰るということは知らない。だから去ることにします」

 

 昭公の喪(霊柩)が懐隤に入ってから、公子・宋が先に帰国した。

 

 しかし昭公に従っていた者は皆、懐隤から出奔し、一人も魯に帰ることはなかった。

 

 六月、昭公の喪が魯都に入った。その後、昭公の弟・宋が即位した。これを魯の定公ていこうという。

 

 季孫意如が役夫を闞公氏(魯の公族の墓地)に送り、昭公の墓と他の公族の墓を隔てるために溝を掘らせようとした。

 

 これに大夫・栄駕鵝が抗議した。


「生前には仕えることができないでいながら、死んでからも隔離して己の悪を明らかにするおつもりですか。あなたにはそれができたとしても、後世、必ずそれを恥とする者が出てきましょう」

 

 季孫意如はあきらめた。

 

 季孫意如が栄駕鵝に意見を求めた。


「私は国君の諡号を定めることで、子孫に知らせたいと思う」


 つまり昭公の諡に悪諡をつけて国君の悪を子孫に伝えたいとということである。

 

 またしても栄駕鵝は反対した。


「生前に仕えることができず、死んでからも悪とみなすことで、自分の意志を示したいのでしょうか。その必要があるのでしょうか」

 

 季孫意如はこれもあきらめ、諡号は「昭」とされた。

 

 七月、昭公が墓道の南に埋葬された。他の墓は道の北にあり、溝は掘られなかったが、先公の墓と離して埋葬された。

 

 後に孔丘こうきゅうが司寇になった時、昭公の墓と他の公族の墓の周りに大きな溝を作り、昭公の墓も一つの区画に入るようにすることになる。

 

 昭公が国外にいた間、季孫意如は魯の祭祀を行い、煬公を祈祷していた。


 煬公は西周時代の魯の国君である。伯禽の死後、考公が即位し、考公が死んで弟の煬公が即位した。季孫意如は昭公の弟を国君に立てたいと思っていたため、煬公を祀ったようである。

 

 九月、即位した定公が煬公のために煬宮(煬公廟)を建てた。それ以前は煬公個人の廟はなく、宗廟の祧(遠祖の廟)から神主を持ちだして祀っていた。

 

 十月、霜が降って菽(豆苗)が枯れた。豆苗は霜に強いと言われているが、それが枯れるほどだったということは、他の作物にも大きな被害をもたらしたことだろう。

 

 周暦の十月は夏暦の八月であるためまだ秋である。霜によって農作物に影響が出るには早すぎるため、異常気象であった。

 

 この時、一足の鳥が定公の宮庭に集まっていた。それを知った孔丘は、


「それは商羊というもので、商羊が現れたら大水(洪水)が起きて長雨が続くことになる」


 と言った。


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