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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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帰れない男

 紀元前511年


 正月、魯の昭公しょうこうは未だ晋の乾侯にいた。


 晋の定公ていこうはこの穀潰しを追い出す意味も含め、兵を使って昭公を国に入れようとしたが士鞅しおうが止めた。


「もし季孫を晋に招いても来なければ、彼は確かに臣下としての道をはずしていましょう。それを確かめてから討伐しては如何ですか」


 晋は魯に使者を送って季孫意如きそんいじょを招いた。同時に士鞅も個人的に使者を送って季孫意如にこう伝えた。


「あなたは必ず来るべきです。私が咎が無いようにします」


 季孫意如は晋に向かい、晋の荀躒じゅんれき(または「荀櫟」)と適歴(晋地)で会した。


 荀躒が言った。


「我が君は私を派遣してあなたにこう問わせた。『なぜ国君を追放したのか。国君がいながらそれに仕えなければ、周には常刑がある。あなたはよく考えるべきだ』と」


 季孫意如は練冠(喪中にかぶる冠の一種)・麻衣(模様の無い麻の服)・跣行(裸足)という姿で深い悲しみを表し、伏して言った。


「国君に仕えることは、臣下として強く望むところです。刑命から逃げるつもりはありません。もし国君が私に罪があると判断するのであれば、私を費邑(季孫氏の采邑)に幽閉し、国君の査問を待たせてください。国君の命に従いましょう。もし先臣の縁故によって季氏を途絶えさせることなく、死を賜るのなら」


 実はここから先の『春秋左氏伝』の文が途切れてしまっている。木簡がずれてしまって、文脈が合わなくなってしまったようである。


 そのためここまでの文章とこの先の文章の文脈が合ってないことを踏まえて読んでもらいたい。


「もしも殺さず、亡命もさせないとすれば、それは国君の恩恵であり、死んでも恩恵が朽ちることはありません。もし国君に従って帰国できるのであれば、それは元から私の願いなので、異心をもつことはありません」


 季孫意如が晋の荀躒に従って乾侯に入った。昭公に会うためである。


 子家羈が昭公に言った。


「主公が彼と一緒に帰ったとして、主公は一慙(一時の恥)も忍ぶことができなかったにも関わらず、終身の慙(恥)を忍ぶことができましょうか」


 昭公は、


「その通りだ」


 と答え、昭公に従っている者達も、


「主公の一言にかかっています。彼を駆逐するべきだ」


 と勧めた。側近は昭公の言葉で晋を動かして季孫氏を倒せると信じていたようである。


 荀躒が定公の名義で昭公を慰労し、こう言った。


「我が君は私を派遣し、国君の命によって意如を譴責させました。その結果、彼は死から逃げようとしませんでした(忠心を表した)。貴君は国に帰るべきです」


 昭公は憤りを持って言った。


「晋君は先君との誼を顧みて恩恵を亡人(亡命者。昭公)にも及ぼしておられる。そのため今回、亡人を国に還らせて、宗祧(宗廟)を糞除(掃除)し、貴君に仕えさせようとされているが(晋君の命に従わせようとしていますが)、彼に会うことはできません。私が彼に会うとしたら、河(黄河。河神)に誓いましょう」


 ここで言う誓いましょうというのは、咎を受けようということである


 荀躒は耳を塞いで走り出て、


「我が君は既にその罪(昭公を亡命したままにしていること)を恐れております。その上、どうして魯の難(昭公が咎を受けるという誓い)を聞くことができるでしょうか。私は帰って我が君に復命します(昭公に難をもたらしたくないので、帰国を強制しません)」


 荀躒は退席して季孫意如に言った。


「魯君の怒りはまだおさまっていない。あなたはとりあえず帰って祭祀を行え」


 結局、昭公は帰れなくなってしまったため、子家羈が昭公に言った。


「主公が一乗の車に乗って魯に入れば(帰国に反対する周りの者から逃れて、魯軍の庇護を受ければ)、季孫は必ず主公を奉じて帰国しましょう」


 昭公はこれに従おうとしましたが、季孫氏と対立している衆人が昭公を帰らせなかった。










 呉が伍子胥ごししょの計謀を実行した。


 先ず、呉は楚を侵して夷(徐君が住んでいる)、潜、六を攻めた。救援を行うため沈尹戌しんいんじゅつが兵を率いて潜を援けると、呉軍は引き返した。


 楚軍は潜の人々を南岡に遷して還った。


 すると呉軍は弦を包囲した。楚の沈尹戌と右司馬・けいが弦を援けるため、豫章に至ったが、またしても呉軍はまた引き返した。


 十二月、日食があった。


 その夜、晋の趙鞅ちょうおうが夢を見た。童子が裸で節をつけながら歌っているというものである。


 翌朝、趙鞅は占いをして蔡墨さいぼくに問うた。


「私が見た夢と、今回の日食はどういう意味があるのだろうか」


 史墨が答えた。


「六年後(「辛亥」の「亥」は五行の「水」に属す。五行には数があり、「水」は六とされているので、六年後となる。木は八、火は七、金は九、水は六、土は五)のこの月に呉が郢(楚都)に入るでしょう。しかし最後は勝つことができないでしょう。郢に入るのは庚辰の日です。日月が辰尾(星の名。東方蒼龍七宿の尾)にいるからです(今回の日食は、太陽と月が辰尾にあった。「辰尾」から「庚辰」の「辰」が導き出される。「庚」がどこから来たのかわからない)。庚午の日(日食があった辛亥の四十一日前)、日(太陽)の謫(災)が始まりました(日食以外の天災が庚午の日にあったようである。六年後の楚の禍も庚午の日に始まる)。しかし火は金に勝つため(五行思想で火徳は金徳に勝つとされている。「庚午」の庚は金、午は火を表す。金と火では火が勝つ。午は南方の楚なので、最後は楚が勝つということになる)、結局、呉は勝てないでしょう」


 実際には五年後の十一月に呉が楚を攻撃して郢を占領する。楚が柏挙で敗れるのが庚午、呉が郢に入城するのが庚辰である。


 


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