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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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刑鼎

 十月、魯の昭公しょうこうが住んでいた鄆から民が逃走し、鄆は壊滅した。

 

 昭公が晋の乾侯に行ってから、鄆の人々は昭公に帰還させないため、逃走して鄆を崩壊させたようである。季孫氏が動いた可能性もある。


 魯の季孫意如きそんいじょは毎年馬を買い、従者の衣服や履物を準備して、乾侯の昭公に贈っていた。しかし昭公は馬を贈った者を捕え、馬を売ってしまいた。


 そのことを知ると季孫意如は馬の供給を中止するようになった。

 

 衛の霊公れいこうが昭公に自分の馬を贈った。「啓服」という行為である。しかし馬は坑に落ちて死んでしまった。

 

 昭公が馬のために櫝(棺)を作ろうとすると、子家羈が止めた。


「従者が疲弊しております。馬を従者に食べさせるべきではないでしょうか」

 

 当時の馬は痛んだ帷に巻いて埋めるのが礼とされていた。


 この子家羈の発言は、実際に従者に馬を食べさせるための進言ではなく、従者が困窮しているにも関わらず、馬のために棺を作ろうとしている昭公を諫めることが目的である。

 

 昭公は過ちを認め、馬を帳に巻いて埋めた。

 

 昭公には公衍こうえん公為こういという子がいた。

 

 昭公は公衍に羔裘(子羊の皮服)を与え、斉に派遣して斉の景公けいこうに龍輔(龍の模様がほどこされた玉)を献上させた。

 

 公衍は龍輔と一緒に羔裘も景公に献上した。喜んだ景公は陽穀(斉の邑)を公衍に与えた。

 

 かつて公衍と公為が産まれる時、二人の母が共に産房に入った。公衍が先に産まれたが、公為の母がこう言った。


「私達は一緒に産房に入りました。ですから一緒に出産の報告をしましょう」

 

 三日後に公為が産まれた。

 

 すると公為の母は先に出産を報告してしまった。昭公は先に報告があった公為を兄とした。

 

 昭公は公衍が陽穀の地を得て帰還したことを喜び、また公衍と公為が産まれた時の事を思い出し、こう言った。


「務人(公為)が禍をもたらした(季孫氏の討伐を謀ったのは公為。失敗して昭公は亡命することになった)。しかも後から産まれたにも関わらず、兄となった。その誣(欺瞞)は既に久しくなる」

 

 昭公は公為を廃して公衍を太子に立てた。







 

 冬、晋の趙鞅ちょうおう士鞅しおうと荀寅(荀呉じゅんごの子。中行氏)が兵を率いて汝水の辺(陸渾戎から奪った地)に築城を行っていた。


 そんな時、趙鞅の臣下が慌てて報告してきた。


「主、報告します。士鞅様と荀寅様が……」


「何?」


 臣下の報告を聞いて、趙鞅は眉をひそめた。


 何でも士鞅と荀寅が国民から一鼓(四百八十斤)の鉄を徴収して刑鼎を鋳造したというのである。そして、その刑鼎には士匄しかいが定めた刑書の内容が鋳られていた。

 

 つまりかつて子産しさんが行った成文法を行ったということになる。しかも趙鞅の意思を無視して行ったのである。


「どうなさいますか。抗議されますか?」


「勝手にやられたことは癪ではあるが……」


 趙鞅は顎を撫でながら、目を細めた。


(かつて子産殿の成文法を批難したにも関わらず、自分がやることになったか)


 そう思うと可笑しさを感じる。


「まあ良い。何も我らが言うことはあるまい」


(いずれはやることだったのだ。それが早まったそれだけであろう)

 

 孔丘こうきゅうはこの件を知ると言った。


「晋は亡びることになるだろう。度(下述)を失った。晋は唐叔とうしゅく(晋の祖)が伝えた法度を受け継ぎ、それを民の経緯(準則)としてきた。卿大夫が序(官職の秩序)によってそれを守っていれば、民は貴人を尊敬し、貴人は自分の業を守ることができたのだ。貴賎に誤りがないこと(身分の秩序が乱れないこと)を度という。文公ぶんこうは執秩の官(官職の秩序を管轄する官)を設け、被廬の法を作ったため盟主になれたのだ。今、その度を棄てて刑鼎を作ったが、民が鼎を見れば(民が刑法を知るようになれば)、尊貴が無くなってしまうだろう。貴人はどうやって業を守るというのだ。貴賎に秩序が無くなって、どうして国を治めるというのだ。そもそも、士匄の刑とは夷の蒐で作られた、晋の乱制である。どうしてそれを法とすることができるというのか」


 晋は夷蒐で中軍の軍を換えたため、賈季かき箕鄭きていの徒が乱を起こした。そのため彼は「晋の乱制」と言ったのである。

 

 この彼の見解はかつて子産が鼎に刑書を鋳た時、晋の叔向しゅくきょうが譴責した内容に似ている。

 

 晋の蔡墨さいぼくもこの件について言っている。


「士氏と中行氏は亡ぶだろう。中行寅は下卿でありながら上令を犯し、勝手に刑器を作って国法とした。これは法姦(法令を犯す罪人)である。士氏は法を変えた(被廬の法は士匄によって改められた)。だから滅亡することになるだろう。その禍は趙氏にも及ぶことになる。趙鞅も参与したためである。しかし彼が参与したのはやむを得ないことであり、刑鼎は趙鞅の意志で作られたのではないため、徳を修めれば禍から逃れられることだろう」

 

 当時の刑法は統治階級が掌握しているものであり、民に公開することは、身分の秩序を乱す行為だと考えられていた。


 国王や貴族が圧倒的な権力を持って民衆を支配していた時代は、民に法を知らせる必要はなかった。民が慣習や命令に従っていれば、国を治めることができたためである。

 

 しかし国王や諸侯の権力が弱くなり、実権が国王から諸侯、諸侯から卿、卿から大夫へというように、下に移っていくと、より多くの人が政治に参加するようになっていった。当然、民衆の発言力も拡大していった。

 

 この権力下降という状況の中では、国君や貴族が押し付けてきた慣習法のみで国を治めることができなくなっていった。こうして万民共通の基準となる成分法が必要になったのである。


 それに最初に気づき、行ったのが子産であった。

 

 されど身分秩序の崩壊にともなって発展した法は、保守派にとっては貴族と庶民、貴人と賎民を分ける壁を崩す存在であった。


 伝統的な身分制度を重んじる孔丘が成文法に批判的だったのはそのためである。

 

 だが、時代の流れは旧制の改革を求めていた。そのため法を明らかにするという動きは各国に拡がっていった。

 

 この法を明らかにするという改革が春秋時代と戦国時代をわける一つの要因とも考えられるだろう。

 

 


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