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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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手打ち

 この年、呉王・闔廬こうりょ伍子胥ごししょを召して行人(外交官)に任命した。これで正式に彼と共に国事を謀るようになったのである。


「汝には季子きし季礼きさつ)殿と共に他国を廻ってもらう」


「承知しました」


(斉か……)


 斉と言えば、楚を脱出した際に知り合った孫武そんぶの国である。


(孫武殿の言葉通りに太子・けんには徳がなく、私の思惑は失敗してしまった)


 また、孫武はあの時、楚を滅ぼすことを無理だと否定しなかった人でもある。


(どうしているだろうか)


 彼はそう思いながら他国を廻るための準備を始めた。










 その頃、斉では軍事面で田穰苴でんじょうしょの存在は大きなものとなっていた。


 大国、晋に対する勝利だけでなく、斉における軍事の改革を彼は積極的に行っており、しかも公平さもあることから彼は民からの人気も高かった。


 彼は主に軍を率いる上で心がけたのは、賞罰の徹底と命令の遵守である。また、彼は兵に対しては良き気遣い、彼らからの信望を得ていた。


 これらの効果は田氏一門にも良い影響を与えており、田氏の民の人気は更に上がっていた。このことは田乞でんきつ孫書そんしょも、彼を推薦した晏嬰あんえいとしても予想外であっただろう。


 それでも田乞は大いに喜んだ。


「流石は我が一族の者だ。汝の才は斉国一番である」


 彼は田穰苴のことをすっかり気に入ってしまった。


「いえ、私などはそれほどの者ではございません」


 田穰苴は斉の景公けいこうに対して直言を憚らず、それでいてこのように謙虚であったことも人気の理由である。


 こういう逸話もある。


 景公が酒を飲み、夜になってから晏嬰の家にやって来た。景公は門を叩き言った。


「国君が来た」

 

 晏嬰は礼服を着て門前に立つと、


「諸侯に何かあったのでしょうか。国家に何かあったのでしょうか。なぜ国君は正常な時ではなく夜になって訪れたのでしょうか?」


 と言うと、景公は笑いながら言った。


「酒醴(美酒)の味と金石(楽器)の声を汝と共に楽しもうと思ったのだ」

 

 晏嬰は内心、ため息をつきながら断った。


「蓆の席を設け、簠簋(食器)を並べるのであれば(酒宴を開くのであれば)、決められた者がいます。私が参加することはできません」

 

 仕方なく景公は、


「司馬穰苴の家に移るか」

 

 と言って、田穰苴の家の前に行き、門を叩いた。


「国君が来たぞ」

 

 田穰苴は甲冑を身に着け、戟を持って門の前に立つと、こう言った。


「諸侯に何かあったのでしょうか。大臣に叛く者がいるのでしょうか。なぜ国君は正常な時ではなく夜になって訪れたのでしょうか?」

 

「酒醴の味と金石の声を将軍と共に楽しみたいと思ったのだ」

 

 田穰苴は晏嬰と同じようなことを言った。


「蓆の席を設け、簠簋を並べるのであるならば、決められた者がいます。私が参加することはできません」

 

 仕方なく景公は、


梁丘拠りょうきゅうきょの家に移るか」

 

 と言って梁丘拠の家に趣、そこでも門を叩いて言った。


「国君が来たぞ」

 

 梁丘拠は左手に瑟を持ち、右手に竽(管楽器)を持ち、歌いながら門を出た。

 

 景公は笑顔で、


「楽しいことだ。今晩、私は酒を飲んだが、もしあの二人がいなければ、どうして我が国を治められるだろう。もしこの一人がいなかったら、どうして私を楽しませることができるだろうか」

 

 これを聞いた君子たちは言った。


「聖賢の国君とは、皆、益友がおり、享楽のための臣下はいないものである。斉の景公はその境地に至らなかったため、どちらも用いた。その結果、亡国を避けることができただけだった」

 






 しかしながら誰もが田穰苴に好意的であったわけではない。

 

 鮑氏や高氏、国氏といった高位の大夫たちである。彼らからすると軍事的才覚を有し、国君や国民からの人気の高い彼と彼を有し、信望を集める田氏が疎ましかったのである。


 彼らは景公に対して、田穰苴の讒言を繰り返すようになっていた。


 そんな彼らを横目で見ながら晏嬰としても困っていた。そもそも最初に田穰苴を推薦したのは、彼である。それに田穰苴に対しても彼は好意的であり、彼に対して恨みも何も無い。


 だが、このままでは臣下の間で不和が生まれ、争いが起こる可能性が出てくる。


 晏嬰は政治家としては改革者ではなく、調停者である。その彼としては家臣の間で争いが起こることは好ましいことではない。


 だからと言って、景公がもし田穰苴の処罰などを行えば、景公へのもっと正しく言えば斉公室への不信感は大きなものとなるだろう。


 それだけ田穰苴への信望、または田氏一門への信望は大きなものになっている。


 この点に関しては晏嬰としては予想外であったが、ともかくそのような状況が生まれることは彼としては避けるべき状況であった。


(田乞の元へ出向くか)









「田穰苴を司馬の職を解くと共に、左遷をしろと仰るのですか」


 田乞は晏嬰に対し、そう言った。


「そうだ」


「そのような通りがお通りになると申されるのか」


「兄上、落ち着かれよ」


 田乞を孫書が落ち着かれる。


「今、高氏と国氏が田穰苴の讒言を行っていることを知っているであろう」


「愚かな連中ですな。まあその連中を尊重なさろうとしているあなたも愚かでありますがな」


「兄上」


 いつも以上に苛立ちを顕にする兄を孫書は、困惑しながらも彼をなだめる。


「今、主公は彼らの讒言を聞こうとはなさっていない。しかし、これが続けられれば、いずれは讒言をお信じになられるかもしれぬ」


「田穰苴は不正などとは無縁の者、そのような讒言をお信じになられることは恥ずべき行為なのではないか」


 それは斉公室への不信感につながることになるだろう。


「汝がそのように考えることは、当然のことであろう。だが今、主公はそれを信用はされていないのだ。それに高氏と国氏が痺れを切らせば、汝らへ牙を向く可能性があるだろう」


「それがなんだと言うのでしょうか。その時は相手になるだけです」


 その田乞の言葉を孫書が咎めた。


「兄上、我らが相手にするのは、高氏へ国氏だけではございません。その下に付いているであろう。大夫らを相手にすることになりましょう。今回は鮑氏も我らの味方になるかもわかりません」


 もしそのような争いが起きた時、斉公室の介入は晏嬰が許さないだろうが、ほぼ独力で彼らを相手にするしかない。


「それに先に晋が軍を動かしたように、晋が介入してくる可能性もある」


 晏嬰が一番に恐れることは他国による介入である。


「だから田穰苴を切り捨てろと申されるのか……」


 ここまで田乞が渋る姿は弟ながらも孫書としては意外であった。


(兄上はそれほどに田穰苴を気に入っていたのか)


 田乞と田穰苴は性格があまりにも違ってはいるものの相性が良かった。基本的に誰かを信じるということをしない田乞が信じた数少ない人物と言えるのかもしれない。


(しかし、状況は田氏としては苦しい状況であることは確かだ)


「兄上、父上は兄上を、田氏を守るために身を引かれました。兄上はそのことを理解なさっていないわけではありますまい」


「父に倣えと言うのか」


 田乞は目を細め少し考えると言った。


「田穰苴は命令となれば、必ずや引き受ける者だ。きっと引いてくれることだろう」


 彼の言葉は晏嬰の意見に同意したことになる。


「田穰苴の左遷と共に、汝らへの追求は行われることのないようこちらが配慮しよう。もちろん田穰苴に害が及ばせるような真似は私がさせない」


「では、これで手打ちですな」


 それからほどなく田穰苴は司馬の職を解かれ、辺境へ左遷された。これに気落ちしたのか彼はしばらくして世を去った。


 高氏、国氏は彼が司馬を辞めさせたことで、田氏への反感は小さくなった。また、彼らに対し田乞が腰を低くして、対応するようになったことも大きかった。


 だが、田乞は内心では高氏と国氏への憎しみを大きくなっていった。







「田穰苴殿……」


 田穰苴が司馬を解かれたことは彼を尊敬し、彼の元で兵法を学んでいた孫武は気落ちしていた。


 田氏を生かすためとはいえ、田穰苴を切り捨てるということがどうにも納得ができないでいたのである。


 (田穰苴の軍略は国のために必要なものであったはずなのだ。それなのに……)


 そんな軍事的異才を斉は受け入れることのできない国になったということなのだろうか。そうするとやがて国のために才覚を見せる者もいなくなるだろう。


「ならば、何のために国に仕え努力するというのでしょうか」


 (仕えるべき相手のために自分の才を活かしたい)


 彼の中で斉という国への不信感が大きなものとなっていた。そんな彼の元に伍子胥がやって来るのは果たして偶然か必然か。




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