魏舒
秋、晋の韓起が死に、子の韓須が後を継いだ。因みに彼は一族の拠点を父の死ぬと同時に平陽へ移した。
韓起が死んだため、晋の政治は魏舒が行うことになった。
彼は滅ぼされた祁氏の田(土地)を七県(鄔・祁・平陵・梗陽・塗水・馬首・盂)に、羊舌氏の田を三県(銅鞮・平陽・楊氏)に分け、司馬彌牟を鄔大夫(大夫は邑長の意味)に、賈辛を祁大夫に、司馬烏(司馬督)を平陵大夫に、魏戊(魏舒の子)を梗陽大夫に、知徐吾(荀盈の孫、荀躒の子)を塗水大夫に、韓固(韓起の孫)を馬首大夫に、孟丙(または「盂丙」)を盂大夫に、楽霄を銅鞮大夫に、趙朝(趙勝の曾孫)を平陽大夫に、僚安を楊氏大夫に任命した。
賈辛と司馬烏は王室に対して力を尽くし(周の内乱で兵を指揮した)、知徐吾、趙朝、韓固、魏戊は四卿の餘子(嫡子以外の子。嫡子の弟および庶子)でありながら職責を失うことがなく家業を守ったことを理由にそれぞれ邑大夫に選ばれた。
司馬彌牟、孟丙、楽霄、僚安は元々邑の政務を行っており、魏舒がその能力を認めたため、邑大夫に任命された。
魏舒が大夫・成鱄に問うた。
「私は戊(魏戊。魏舒の庶子)に県を与えたが、人はそれを私心によるものだと思うであろうか」
成鱄は言った。
「何故でしょうか。彼の人となりは、遠くは国君を忘れず、近くは同僚に強要せず、利がある場所にいても義を想い、約(困窮)にあっても純を忘れず(苦難に陥っても悪を行わず)、守心(善を守る心)を持ち淫行が無いため、県を与えても問題ありません。昔、武王が商に勝って広く天下を有した時、十五人の兄弟が国を与えられ、四十人の姫姓の者が国を与えられました。全て家族親戚でございます。人材の抜擢に他の条件はありません。善がある者を選ぶべきであり、親しい者も疎遠な者もその条件は同じです。『詩(大雅・皇矣)』にはこうあります。『ただ文王だけは上帝のその心を察する。徳音(名声)が広く伝わり、その徳は物事の是非を判断する。是非を判断して善悪を分けたために、長となり君となった。この大国の王となり、民を帰順させて懐柔する。文王のようになれれば、その徳を後悔することはない。上帝の福を受け、子孫に恩恵が施される』心が義に合うように制御できることを『度』といい、徳が正しくて反応が和していることを『莫(静寂なこと。国に乱が無い状態)』といい、四方を照らすことを『明』といい、施しに勤めて私心がないことを『類(物が偏ることなく、あるべき場所に帰属している状態。善悪・是非・有無の分類がはっきりしている状態)』といい、教誨して倦まないことを『長(教え諭し、訓戒するのは長者の道なので「長」という)』といい、賞慶刑威(賞罰をはっきりさせて威信を示すこと)を『君(刑罰は国君の職なので「君」という)』といい、慈和徧服(慈心と和心によって広く帰服させること)を『順』といい、善を選び従うことを『比(従う)』といい、経緯天地を『文』というのです。この九徳(度・莫・明・類・長・君・順・比・文)を誤らなければ、事を行って悔いることなく、子子孫孫が天禄(福)を受け継いでそれに頼ることができるのです。主の人選は文徳(文王の徳)に近づいたものですから、遠くまで影響を与えることができるでしょう」
賈辛が祁県に出発する時、魏舒に会いに行った。
魏舒は彼に言った。
「かつて叔向が鄭に行った時、容貌が劣る鬷蔑(人名。「鬷明」。または「然明」)が叔向に会いたいと思った。そこで、鬷蔑は器(食器)を片づける者について堂下に行き、立ったまま叔向に一言話した。すると酒を飲もうとしていた叔向はその言葉を気に入り、『鬷明であろう』と言うと堂下に行き、その手を取って堂上に戻り、こう語った。『昔、賈大夫は容貌が優れなかったというが、美しい妻を娶ったという。しかしその妻は醜い容貌の彼を好きになれなかったために三年も話さず、笑わなかった。ある日、賈大夫は妻を御して皋沢に狩りに趣いたことがあった。賈大夫は矢を射て雉を仕留めると、それを見た妻が始めて笑顔を見せて話しをした。賈大夫はこう言った。「才とは無くてはならないものである。私に矢を射る才がなければ、汝が話したり笑ったりすることもなかったであろうな」と、あなたの容貌は優れているとは言えない。だから何も言わなければあなたを失うことになっていただろう。言葉とは発さなければならない。賈大夫の弓の才能と同じことである』その後、二人は旧友のように親しくなったという。私は汝を抜擢したのは、汝が王室に対して力を尽くしたからである。さあ、行きなさい。恭敬でありなさい。汝の功績を損なってはならない」
汝も鬷蔑や賈大夫のように能力がある。それを発揮してくれと彼は賈辛に伝えたのである。
後に孔丘が魏舒の人材抜擢について義(道義)に則っていると評価し、こう言った。
「近くは親族を失わず、遠くは賢才を失わない。これは義と言うのである」
また、賈辛への命(言葉)を聞いて忠であると評価し、こう言った。
「『詩(大雅・文王)』にこうある『永く天命に符合できれば、自ら多福を求めることができるものだ』これは忠である。魏子の挙(人材の抜擢)は義であり、命(賈辛への言葉)は忠であるため、その後代は晋で長く栄えることだろう」
ある日、晋の梗陽の人が訴訟を起こしたが、魏戊では解決ができなかったため、魏舒に報告した。
訴訟の一方の当事者である大宗が女楽を賄賂として贈り、魏舒が受け取ろうとしたことがあった。
それを知った魏戊が晋の大夫・閻没(または「閻明」)と女寬(または「叔寛」)に言った。
「主は賄賂を受けないことで諸侯に名が知られている方だ。もし梗陽の女楽を受け入れれば、これ以上大きな賄賂は無い。あなた達に主を諌めてもらいたい」
二人は同意した。
後日、二人は魏氏の屋敷に行き、庭で魏舒の退朝(朝廷から帰ること)を待った。魏舒が帰って食事の準備が始まると、二人は魏舒に招かれた。二人は招きに応じたが、料理が並べられると三回嘆息した。
食事が終わってから、魏舒は二人を坐らせてこう問うた。
「諸伯叔(伯父・叔父)からこういう諺を聞いたことがある『食事の時だけは憂いを忘れることができるものである』しかし汝等は料理が置かれてから三回も嘆息した。それはなぜか?」
二人は答えた。
「ある人が我々二人の小人に酒を贈られましたが、食事を取ることはありませんでした。とても飢えていたため、食事が始まるまでは足りないことを心配して嘆息しました。しかし途中で『将軍(中軍の将)が誘った食事が足りないはずはない』と思い直し、自分を咎めて再び嘆息しました。料理が全てそろった時、小人の腹は、君子(魏舒)の心のように変えて、ちょうど足りればそれで満足できるようになりたいと思い、三回目の嘆息をしました」
彼らの言葉は私たちの腹を君子の心のようにさせたい、貪欲な腹を直したいという意味である。
魏舒は彼らの真意を悟り、梗陽の賄賂を拒否した。




