饗礼
楚で郤宛の難が起きてから、国人の批難が絶えなかった。胙肉(祭祀で使った肉)を卿大夫に配る者も、皆、令尹・子常の不満を口にし、肉を配りながら子常を訴えた。
この事態に子常は大いに恐れた。
そのことを察した沈尹・戌は良い機会だと考え、子常の元を訪ねて言った。
「左尹(郤宛)と中廏尹(陽令終)はその罪を知ることなく、あなたに殺されることになりました。そのため誹謗の声が今に至るまで絶えておりません。仁者とは人を殺しても誹謗をこうむるようなことはないものです。しかし今、あなたは人を殺して誹謗を興し、しかも手を打とうとなさっておりません。これはおかしなことです。費無極が楚の讒人(讒言を好む者)であることを、民で知らない者はおりません。彼は朝呉を除き、蔡公・朱を走らせ、太子・建を失わせ、連尹・伍奢を殺し、王の耳目を塞いで聞くもことも見ることも明らかにさせませんでした。彼がいなければ、平王の温恵恭倹は成王や荘王を超えることができたでしょうか。平王が諸侯を得ることができなかったのは、彼を近づけたためです。今、また三氏(郤氏、陽氏と晋陳の晋氏)の不辜を殺し、大きな誹謗を招くことになりました。誹謗はあなたにも及ぼうとしています。それにも関わらず、あなたは手を打たずにいますが、どうするつもりでしょうか。鄢将師はあなたの命を偽って三族を滅ぼしたのです。三族は国の良臣であり、官位にいる間、過失はございませんでした。呉では新君が立ち、疆場(国境)は日々緊張しております。楚国内にもしも大事が起きれば、あなたの危機となることでしょう。知者は讒言を除いて自分を安定させるものです。しかしあなたは讒言を愛して自分を危うくしています。これは昏庸の極みです」
平王が温恵恭倹であるとは、大いに疑問を覚える言葉であるが、ここでの彼の目的は費無極と鄢将師を排除することである。
子常は頷き、
「全て瓦(囊瓦。子常は字)の罪である。良い方法を考えよう」
九月、子常が費無極と鄢将師を処刑し、その一族を滅ぼした。
国人は喜び、誹謗の声も収まった。
魯の昭公が鄆から斉都に行った。斉の景公が饗礼でもてなそうとしたが、魯の子家羈が止めた。
「朝も夕も斉の朝廷に立っているにも関わらず、なぜ饗を開くのでしょうか。宴礼を用いて酒を飲みましょう」
饗礼も宴礼(燕礼)も宴の種類である。饗礼は諸侯の間で開かれる盛大な宴のことであるが、昭公は鄆に住むようになってから、度々斉の朝廷に入り、斉の賓客ではなく臣下に近い立場になっていた。
饗礼を用いた宴を開きながら、実際は臣下のように遇されれば、昭公が恥をかくことになる。そこで子家羈は饗礼を辞退し、宴礼を用いるように進言したのである。宴礼は諸侯が卿大夫に用いる礼である。
宴が始まると、斉景公は宰(宰夫)に命じて昭公に酒を注がせた。
諸侯は相手の身分が対等の諸侯なら自分で酒を注ぐものだが、相手が卿大夫(臣下)の場合は直接酒を注がず、宰に酒を注がせるのが礼であった。景公が宰に命じて昭公の酒を注がせたということは、昭公を臣下とみなしていることを意味する。
景公は途中で席を離れて去った。
子仲(魯の公子・憖。季孫氏を放逐しようとして失敗し、斉に奔った)の娘・重は景公の夫人であった。
景公が、
「重を宴に参加させて魯君に会わせたい」
と言ったが、子家羈は景公夫人に会うのを避けるため、昭公を連れて退出した。
暫くして昭公は鄆に戻った。
十二月、晋の籍秦(籍談の子)が諸侯の戍(守備兵)を成周に送った。
魯だけは国難を理由に出兵を辞退した。
紀元前514年
ここまでに景公が昭公を軽視したために昭公は我慢できず、晋に向かい、乾侯(斉と晋の国境。晋の邑)に入った。
そこで昭公は晋に使者を送ることにした。晋に入国する際の出迎えを求めるためである。
だが、子家羈がそれを止めた。
「人に援けを求めているにも関わらず、安息の地にいたら(三年も斉の地で平穏に生活していたら)、誰が同情するでしょうか。魯と晋の国境に向かうべきであり、斉から直接、晋に行くべきではありません」
しかし昭公は進言を聞かず、晋に使者を送って出迎えを請うた。
この彼の要請は晋側を大いに不快にさせた。晋の頃公が言った。
「天が禍を魯に降し、その国君は国外に亡命することになったにも関わらず、魯君は一人の使者も私に送ることなく、甥舅(婚姻関係の者。斉)の下で平穏に暮らしていた。その魯君のために斉に出迎えの使者を出せというのか?」
晋は昭公を魯の国境まで退き返らせてから、改めて昭公を出迎える使者を送った。
昭公は再び乾侯に戻ってそこに住むようになった。




