愚者たち
外伝の方も更新しました。
呉で政変が起きた頃、楚でも混乱が起きた。
楚の大夫に郤宛という人物がいた。彼は実直かつ温和であったため、国人に愛されていた。
しかし右領(官名)・鄢将師は彼を嫌っており、彼を追い落とすために費無極と結むようになった。
費無極も郤宛のことは嫌っていた。
令尹・子常は賄賂を貪り讒言を容易に信じるたちであったため、費無極はそれを利用することにした。
彼は子常に言った。
「子悪(郤宛の字)があなたを酒宴に誘おうとしています」
一方の郤宛にはこう言った。
「令尹があなたの家で酒を飲みたいようです」
郤宛が信じ、
「私は賤人(身分が低いこと)であるため、令尹に足を運ばせることはできません。もし令尹が本当に来るというのであれば、それは大きな恩恵です。しかし私には酬(報献。礼品)とする物がありません。どうすればいいでしょうか?」
と訪ねた。正直、尋ねる相手を間違っている。
費無極は内心、笑みを浮かべながら、
「令尹は甲兵(甲冑・武器)が好んでおります。あなたが準備できるようならば、私が代わりに選びましょう」
と言った。この言葉に郤宛は甲冑と武器を準備し、五つの甲冑と五つの武器が選ばれた。
費無極が郤宛に言った。
「これを門に置いておけば、令尹があなたの家を訪問した時、必ず目に止まることでしょう。その機会を使って献上すればいいでしょう」
郤宛は頷いた。良くもまあ、こんな男を信じる気になったものである。
そして、饗宴の日になり、郤宛は門の近くの帷に甲冑と武器を置いて子常を待った。
ところが費無極が子常にこう言った。
「私はあなたを害してしまうところでした。子悪はあなたの不利(暗殺)を企んでおり、甲(甲冑)が門に置かれております。あなたは行ってはなりません。前回の役(潜の役)において、本来、楚は呉に対して志を得ることができたのです(本来は呉を破ることができた)。しかし子悪は呉から賄賂を受け取っていたため、兵を引き返して他の将帥も誤らせ、楚軍が退くことになったのです。彼は『乱に乗じるのは不祥だ』と申しておりましたが、呉が先に我々の喪に乗じて兵を出したのです。我々が呉の乱に乗じて何が悪いのでしょうか」
子常が人を送って郤氏の家を確認させると、武器が置いてあった。
そのことにより彼は費無極の讒言を信じ、鄢将師を召して状況を話した。子常の話を聞いた鄢将師はすぐに郤氏討伐を組織し、人を送って郤氏の家に放火するように命じた。
それを知った郤宛は自殺した。
郤氏の家に集まった人々は、なかなか火をつけようとしなかった。そこで鄢将師は叫んだ。
「郤氏の家に火をつけない者は、郤氏と同罪とみなす」
しかし人々は火をつけるために用意された菅(白華。植物の名)や秆(稲草)を運び去って棄ててしまった。郤宛に対する国民の信望は本物であったと言うべきだろうか。
鄢将師は民衆を使うのをあきらめ、里尹に命じて火を放たせた。それにより、郤氏の族党が全滅した。
郤宛と親しかった陽令終(陽匄の子)とその弟・陽完、陽佗、および大夫・晋陳とその子弟も殺され、親しかったことで処刑されることを恐れた伯嚭(伯宗の曾孫、伯州犂の孫)は呉に奔った。
晋陳の家族が国都で叫んで言った。
「鄢氏と費氏は王のようにふるまい、専権して楚に禍乱をもたらした。彼等は王室を衰退させ、王と令尹を欺いて自分の利を求めている。しかも令尹は彼等を全て信じている。国はどうなってしまうのだろうか」
このように今回の事件は国民から大いに批難されることになった。子常はこの国人の離心を知って不安を覚えるようになった。
秋、晋の士鞅、宋の楽祁犂(子梁。宋の司城)、衛の北宮喜および曹人、邾人、滕人が扈(鄭地)で会した。
周の守備と魯の昭公の帰国について相談された。
宋と衛は昭公が帰国した方が利益があると判断したため、帰国を強く望んだ。
しかし士鞅は季孫氏から賄賂を受け取っていたため、昭公を帰国させる気がなかった。
そこで彼は楽祁犂と北宮喜に言った。
「季孫がまだ罪を知る前に(季孫氏の罪を明らかにする前に)魯君は彼を討伐した。季孫は自ら囚人になることを請い、また亡命することも請うたが、魯君はどちらも許そうとしなかった。ところが魯君は季孫に勝てず、自分が国を出ることになった。備えがない者が国君を追い出すことができると思うだろうか」
季孫氏が国君を放逐したのであるならば、魯君の出奔は季孫氏が原因であるが、季孫氏にはその準備が無く、囚人になることや亡命することを求めるほどだった。季孫氏に準備がなかったのだから、魯君は季孫氏によって追い出されたのではなく、自ら国を出たと言いたいのである。
詭弁である。
「季孫氏が元の地位を回復できたことは、天が彼を助けて公徒(昭公の兵)の怒りを鎮めさせ、叔孫氏の心を啓発したからである。そうでなければ、伐人(季孫氏を討伐する者。昭公の兵)が甲冑を脱ぎ、冰(矢筒の蓋)を持って遊ぶはずがないではないか。叔孫氏は禍が大きくなることを心配して自ら季孫氏の側に立った。これは天の道(意思)である。魯君は斉に助けを求めたが、三年経っても成功してはいない。季孫氏は広く民心を得て、淮夷も帰順しており、十年の備えと斉・楚の援けがある」
昭公は斉にいるが、斉は昭公のために尽力していない。結果として季孫氏を助けることになっているということである。
「天の賛(賛助)があり、民の助けがあり、堅守の心があり、列国(諸侯)と等しい権を持ちながらも、事件を公にせず、国内に主がいる時と同じように仕えているではないか」
確かに季孫氏は別の国君を立てていない。
「だから私は魯君の帰国が困難であると判断する。しかし汝らは国のことを考えて魯君を帰国させようとしており、それは私の願いでもある。汝らに従って魯(季孫氏)を包囲し、もし失敗したら共に死ぬことにしよう」
彼らの意向を支持した言葉に聞こえるが、実際はそれによる責任はあなた方が取れよという脅迫である。
二人は晋の意向を悟り、魯討伐を辞退した。
士鞅は会に参加した小国に別れを告げてから、晋の頃公に昭公の帰国が困難であることを報告した。
一方の魯では、仲孫何忌と陽虎(季孫氏の家臣)が鄆(昭公がいるところ)を攻めた。
仲孫何忌は若いため、戦の指揮は陽虎が取っている。
(ふん、つまらん戦ではあるが、せいぜい俺の権力の礎になってくれよ)
陽虎はそう思いながら指揮を取った。
鄆人(昭公の臣下)が迎撃しようとすると、子家羈が止めた。
「天命を疑うことができなくなって(季氏に天命があることを疑えなくなって)久しくなる。国君を亡命させたのはこの衆(迎撃しようとしている者達)であろう。天が禍を降したにも関わらず、福(幸運)を求めても難しいことである。もし鬼神がいるのならば、この一戦は必ず敗れることになる。既に望みが無くなったために、この地で死ぬことになるだろう」
昭公は十九歳になっても童心があり、優秀な国君とは言えず、子家羈の進言もたびたび拒否していた。
既に天から見放され、昭公自身にも欠点が多いにも関わらず、それに気がつかないで季孫氏と戦おうとしている者達が周りにいることに、子家羈は危機感を感じているのである。
そんな彼の態度が気に入らないこともあり、昭公は子家羈を晋に派遣した。
季氏の軍を迎撃した昭公の軍は且知(鄆附近)で敗れた。




