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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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鱄設諸

 紀元前515年


 春、魯の昭公しょうこうが鄆から斉に行き、再び斉から鄆に戻った。

 

 呉王・りょうが楚の喪(前年、平王(へいおうが死んでいる)に乗じて兵を動かした。公子・掩餘(または「蓋餘」)と公子・燭庸(どちらも呉王・僚の同母弟。一説では呉王・寿夢の子)が潜を包囲した。

 

 同時に季札きさつが上国(中原諸侯)を聘問した。季札は晋を訪れてから諸侯の態度を観察する命を受けていたが、実際のところはこの出兵に反対意見を述べており、遠くになりたなかったという意図がある。

 

 これに対して楚は莠尹(官名。詳細は不明)・ぜんと王尹(王尹は宮内の政務を行う官。または「工尹」)・麇が兵を率いて潜の救援に向かい、左司馬の沈尹戌しんいんじゅつが都君子(都邑の士)と王馬の属(王の馬を養う官)を率いて増援した。

 

 両軍は窮(または「窮谷」)で遭遇し、呉軍の進路が塞ぎ、楚の令尹・子常しじょうは水軍を率いて沙汭(楚の東部)に至ってから兵を還した。

 

 楚の左尹・郤宛げきえんと工尹・寿じゅが兵を率いて潜に至った。呉軍は退路も塞がれてしまい、進退に窮してしまった。

 

 その頃、呉国内で王位をねらっている公子・こうが言った。


「時が来た。機会を失ってはならない」

 

 彼の言葉を受け頷いたのは、伍子胥ごししょである。


「はい、そのための手段ですが……」


鱄設諸せんせつしょを使って、王を刺殺する」


「確かにその手が最も被害が少なく、素早く事を運ぶことができます。されどもうしばらく時を与えられないでしょうか。この策では、確実に鱄設諸が死んでしまいます。あの男を失うのは惜しいと私は思えます」


 鱄設諸は苦労を共にしただけに伍子胥は彼を殺したくはなかった。

 

「だが、軍はこちらに戻ることはできず、季礼殿は他国にいる。これ以上に絶好の機会がないのだ」

 

 特に季礼が他国にいることが大事であった。彼はただでさえ国における名声は随一なのである。その彼が此度のようなことを事前に知れば、許すことはないだろう。


「鱄設諸でなければ、王刺殺はできないのだ」

 

 公子・光は鱄設諸を呼び、言った。


「上国(中原諸侯)にこういう言葉がある『取りに行かなければ得ることはできない』私は王嗣(王の後継者)であるため、王位を求めるつもりだ。成功すれば季子(季札)が帰国しようとも私を廃すことはないだろう」

 

 鱄設諸は頷きながらも言った。


「王を殺すことができます。しかし母は年老い、息子は幼弱でございます。どうすればいいでしょうか」


 彼の妻である范氏は世を去っており、家には年老いた母と息子しかいない。もし自分が死ねば、路頭に迷わすことになる。そのため家族を公子・光に後を託したいということである。


 公子・光は頷き、

 

「私の身体は汝の身体と同じである」


 と、母や子の面倒は私が自分の家族のように面倒を看るとした。


「わかりました。あなた様にこの命、差し上げましょう」



 

 

 


 

 四月、公子・光が甲兵を堀室(地下室)に隠して呉王・僚を宴に招いた。

 

 呉王・僚は王宮から公子・光の家の門に至るまで、道の両側に甲士を坐らせて警護を強化し、公子・光の家の門も階段も戸も座席も全て王の親兵で埋めさせた。


 王の両側は鈹(短剣)も持った兵が警護を行う。

 

 羞者(料理を運ぶ者。「羞」は料理を進めるという意味)は門の外で裸になってから服を換え、膝で歩いて王の前まで進み、鈹を持った兵が左右から羞者に鈹を向け、刃先が身体に刺さりそうなほどであった。


 羞者が王の前まで来たら、王の左右の者が料理を受け取る。このように厳重な警備を行っており、本来ならば、怯えても可笑しくはないが、鱄設諸は毅然としていた。


(だから汝に任せるしかないのだ)


「後は頼むぞ」

 

 公子・光は途中で足の疾(不調。怪我)を偽って堀室に入った。

 

 暫くして、鱄設諸が炙魚をもって王に近づいた。魚の中に匕首(短剣)を隠している。


 二人の兵に鈹を向けられる中、鱄設諸は毅然としたまま、王の前まで進む。


(母よ。先に逝くことをお許し下さい。息子よ。立派な男になれ)


 彼は目をかっと見開き、魚の中に手を突っ込み、匕首を抜き出すや否や、呉王・僚に飛びかかり、刺した。それと同時に左右の兵が鈹を鱄設諸の胸に刺した。


 呉王・僚と鱄設諸は死んだ。

 

「王は死んだか」


 それは同時に鱄設諸の死を意味する。


(あの者の死を無駄にしないことが私ができるあの者への手向けよ)


「王の手の者を無力化せよ。降伏する者は許せ、しない者は殺せ」


 呉王・僚の死は外で待機していた伍子胥にも伝えられた。


「鱄設諸……」


 彼は目を閉じ、彼の死を悔やみながらも動いた。


「王が死んだことを周囲に伝えよ。そして、新たな王への忠誠を誓うのであれば、地位はそのままにすることを知らせよ。できる限り、血を流させるな」


 呉王・僚の死は直ぐ様、多くの者が知るところとなり、抵抗する者も一部いたが、伍子胥が適切に対処したことで余り血を流すことはなかった。

 

 その後、公子・光が即位した。以後、彼は呉王・闔廬こうりょ(闔閭)と呼ばれることになる。

 

 暫くして、季札が帰国した。


 呉の人々は息を飲んで彼の動向を見守った。もし彼が呉王・闔廬の即位を認めなければ、呉王・闔廬の正当性は否定される。また、もし自分が即位することを言えば、呉の人々は喜んで彼に力を貸すかもしれない。


 だが、季札は、


「先君の祭祀を廃さず、民人(国民。百姓)がその主を廃すことはなく、社稷を奉じて国も家も傾くことが無いのであれば、それは我が君である。私が誰かを怨むことはない。死者(呉王・僚)を哀れみ生者(闔廬)に仕え、天命を待とう。私が乱を起こしたのではない。即位した者に従うことが先人の道である」

 

 と言って季札は呉王・僚の墓で哀哭してから朝廷に帰り、元の官職のまま呉王・闔廬の命を受けた。

 

 呉王・闔廬はほっとして彼に命を与えた。

 

 楚に出兵していた呉の公子・掩餘は徐に、公子・燭庸は鍾吾に奔り、楚は呉の乱を聞いて脅威が去ったと判断し、兵を退いた。










(全て上手くいった)


 呉の政変は上手くいったと断言して良いだろう。しかし、伍子胥は暗い気持ちで鱄設諸の家の前にいた。彼の死を家族に知らせ、息子が成長した後に卿に任命する旨を伝えるよう命じられていたのである。


「王の使者であります伍子胥でございます」


「伍子胥様ですか。良くぞいらっしゃいました」


 伍子胥を鱄設諸の母が彼を向か入れ、部屋に案内されるとそこには鱄設諸の息子らしい年は十代くらいの者がいた。


「此度、鱄設諸殿は王を即位させるため勇敢に戦われ、立派な死を遂げられました。王はそれに報いため、御子息が成長された後に卿に任じられるとのことです」


「ああ、有り難きお言葉でございます」


 鱄設諸の母は泣きながらもそう言ってくれたことは伍子胥としては心が軽くなる気持ちであった。


「そう言ってもらえると助かります」


 その後、傍に控えている鱄設諸の息子を見る。


「御子息の名を伺ってもよろしいでしょうか」


「私はれいと申します」


「蠡殿、汝の父上は勇敢な男であった」


 伍子胥の言葉に蠡は、


「有り難きお言葉でございます。父上も天涯にて、お喜びのことでしょう」


 と言って彼は深々と頭を下げた。


『鱄設諸殿は王を即位させるため勇敢に戦われ、立派な死を遂げられました』


『汝の父上は勇敢な男であった』


(父は勇敢だった。立派な死を遂げた……)


 頭を下げたまま彼は心の中で呟く。


(父の死と共に、公子・光は王位を手に入れ、伍子胥も高位を得るだろう……)


 蠡は葉を噛み締める。


(納得できるか?)


 父は自分が死ぬことになることを悔やまずに死んだことだろう。そして、即位された呉王・闔廬の自分への配慮とて、決して悪いものではない。そのことを理解できないわけではない。


(だが、納得できない自分がいる。なら納得するにはどうすれば良いのか)


 それは単純な言葉に言い表すことができる。


(復讐)


 それが自分が納得するべき手段であろう。


(復讐してどうするのか)


 今、呉は呉王・闔廬の元でより良い国になっていくことだろう。それに復讐することは愚かな行動ではないのか。そのことを考えないわけではない。


(だが、自分を納得するための術として必要なことであるならば、行わねばならない)


「私も父上と同じように呉の礎となれますよう呉に尽くすことを王にお伝えくださいませ」


「素晴らしい言葉だ。王もお喜びになられることだろう」


 伍子胥は彼の言葉に笑みを浮かべ頷く。


「私の母であります范氏の親戚が鄭におります。もし鄭との関係を良くする際には、その血縁が利用できることでしょう」


「おおそうであったか」


「そのためにも私は母の姓である范を名乗った方が都合が良いと考えまして、喪が明けましては、范蠡はんれいと名乗ろうと考えております」


 その言葉に驚いた伍子胥は止めた。


「いや、そこまでする必要はないぞ」


「いえ、伍子胥様。私は王に対し、忠を尽くしたいのです。それが父の願いでもあることでしょう」


「そうか……わかった。王にはお伝えしよう」


「感謝致します」


 伍子胥は彼に対し、鱄設諸に良き御子息が持ったものだと思いながら帰っていった。


 それを見送りながら范蠡は、


(父上は喜ばないだろうな)


 父はきっと喜ばない。そういう人だった。それでも……


『お前はきっと賢い者になるだろうな』


 書物を読んでいる時に大きな手で撫でてくれたそんな優しい父がもういない。


(私は納得したいのです。だからどうかお許し下さいませ)


 鱄設諸の死は、呉に光と影を与えるものであった。




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