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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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国君らしく臣下らしく

遅くなりました

 魯の昭公しょうこうら一行が斉に至った頃、臧孫賜(ぞうそんしが従って来た者たちに盟を結ばせることにした。


 載書(盟書)にはこう書かれた。


「力を尽くして心を一つにし、好悪を共にし、罪の有無を明確にし、公に従うことを堅持する。内外と通じてはならない」


 昭公の名義で載書が作られ、子家羈に見せられた。すると彼はこう言った。


「このような内容ならば、私は盟に参加できません。私は不佞(不才)であるため、二三子(各位)と同心にはなれません。そもそも、罪は皆にあります」


 自分たちはは昭公の亡命を招いただけでなく、国に残った者は昭公を駆逐した皆に罪があると言える。


「私は国内外と通じ、主公からも離れてでも、主公を帰国させるために奔走するつもりです。二三子は亡(亡命)を好み、定(復位)を悪としているため、私には好悪を共にできません。主公を難に陥れることほど大きな罪はないではありませんか。内外と通じて主公から離れることによって(主公のために奔走することによって)、主公は速やかに国に帰れるようになるのです。なぜ内外と通じてはならないのでしょうか。帰国の努力もせずに、亡命先で何を守ろうというのですか」


 子家羈は盟を結ばなかった。


 彼だけが本当の意味で昭公に対し誠実であろうとしてもその思いは昭公に伝わることはなかった。


 一方、魯国内に叔孫婼しゅくそんしゃくが闞から国都に戻り、季孫意如きそんいじょに会っていた。季孫意如は何回も叩頭して言った。


「あなたは私をどうするつもりでしょうか?」


 叔孫婼は、


「人は誰でも死にます。あなたは国君を放逐した悪名を負ってしまい、子孫代々その悪名を忘れることはできないでしょう。哀しいことではありませんか。私があなたに何をできましょうか」


 季孫意如は、


「もし私が態度を変えて再び国君に仕えることができるならば、それは死者を活かし、骨に肉を蘇らせるのと同じことでございます」


 と言った。こうやってみると確かに子家羈の言うとおり、今回の件で、思い直す部分があったように思える。


 この言葉を聞いて叔孫婼は斉に向かい、昭公に報告した。


(好機が来た)


 ここを逃せば、昭公の帰国はないと考えた子家羈は秘密の漏洩を防ぐため、公館に来る者を全て捕えるよう士卒に命じた。


 昭公と叔孫婼は帳幄の中で話した。叔孫婼が言った。


「大衆を安定させてから主公を国に迎え入れようと考えております」


 ところが、叔孫婼の計画をどこからか知った昭公の徒は叔孫婼を殺そうとした。何故ならば、魯への帰国を願っていなかったのである。


 帰国してしまえば、斉の重用されているのに、また、貧しい魯に戻らねばならなくなるからである。


 季孫氏の報復も考えられる。


 叔孫婼にも失敗はあった。昭公だけを帰国させようとしていたのである。そうなると昭公という御輿がなくなれば、有象無象の類でしかなくなってしまう以上、彼らとしては昭公を手放すわけにはいかなかった。


 ともかく、彼らは自分の保身しか考えてはいなかった。


 昭公の徒は道に隠れて叔孫婼を襲おうとした。しかし左師展さしてん(魯の大夫)が昭公に伝えたため、昭公は叔孫婼に道を変えるように教え、鑄から帰国させた。


 叔孫婼が魯に帰った頃には、季孫意如の気が変わっていた。


 彼は最初は純粋に昭公との仲を修復したいとは考えていた。しかし、最初に喧嘩を売ってきたのは昭公なのである。もし、本当に仲直りをしたければ、相手の方から頭を下げるべきであり、何故こちらが頭を下げねばならないのかと、そんなことを彼は考え始めたのである。


 十月、そんな態度の季孫意如を見て叔孫婼は正寝で斎戒し、祝宗に自分の死を祈らせた。


 季孫意如の心変わりに対する怒りと、騙されたことに対する恥によるものである。


 そして、叔孫婼は死んだ。


 一方、左師展が昭公を一乗の馬車に乗せて帰国させようとしたが、昭公の徒に留められた。これにより、昭公の国に戻る最大の好機は失われてしまったのであった。







 


 この魯の混乱に不快憤りを覚え、失望を感じていた男がいた。孔丘こうきゅうである。


「この国はだめかもしれないな」


 そう彼は左丘明さきゅうめいに言った。


「確かにこの混乱は大きなものではあるが、私たちにはどうしようもない」


「どうしようもないか……」


 孔丘はため息をつく。


「確かにその通りだが、私はこの乱れた世をどうにかせねばならないと思う」


 彼は魯のこの混乱を見つめながら人々の苦しみの声を聞いていた。弟子に庶民の者たちも多いことも関係しているだろう。


「どうするというのだ」


「私が周公の政治を行う」


 孔丘が政治に情熱を燃やし始めた最初であった。


「この国でその理想を実現するのは、難しいのではないか」


「そうだな。だから斉に行く」


 そう言って彼は斉に向かった。昭公に付き従うためという行動にも見えたが、実際は斉に仕えるためである。


(主公には悪いものの、主公は臣下の地位を受け入れていらっしゃる。これでは)


 孔丘にもその認識があったことと、斉に力があるというところも大きかったであろう。


 彼は斉に入って先ず、高張こうちょうの家臣になった。高氏を通じて斉の景公けいこうに近づこうとしたのである。


(左丘明のお父上に斉の友人がおられて良かった)


 左丘明の父・左丘信さきゅうしんは孔丘が斉に行くと聞くと紹介してくれたのである。


(彼も一緒に来てくれると良かったのだが)


 友人の左丘明のことを思いながら彼は斉の太師と音楽について語り、『韶(舜の時代の楽舞)』を学んだ。


 一度学び始めるとすぐに没頭し、三カ月の間、肉を食べてもその味が分からないほどだった。斉の人々はその姿を称賛した。


 その評判もあり、景公は孔丘に政治について問う機会が生まれた。ここで気に入られれば、政治に参加できるようになると考えた彼は気合を入れて言った。


「国君は国君らしくし、臣下は臣下らしくす、父は父らしくし、子が子らしくするべきです」


 君臣の関係はきっちりとすべきというのが、彼の考え方であると共に当時の斉では陳氏の専横が目立ち始めていたため、孔丘は越権を許すべきではないという意味で警告するという意味もあった。


 景公は、


「素晴らしい。国君が国君らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなければ、たとえ粟(食糧)があっても、私が食べることはできなくなるからな」


 と、孔丘の言葉に納得した。彼は短い言葉で、内容を端的にわかりやすく伝えることが得意である。弟子に教えを授けてきた経験が生きていたと言える。


 後日、景公が再び政治について問うと、孔丘はこう言った。


「政治の要は節財にあります」


 この言葉には魯の現状が踏まえたことで、贅沢をなくさねば国は崩壊すると彼は考えたのである。


 景公は孔子の言葉に道理があると思い、尼谿の地を彼に封じることにした。異例の出世と言うべきだろうか。このことは斉の宮中で噂になった。


 特に田氏の者にそう言った噂が伝わった。それを横目で見ていたのは、晏嬰あんえいである。


(玉も砕かれば、ただの石に過ぎない。光り物は壊れやすいものだ)


 晏嬰は景公の元に出向き言った。


「儒者は滑稽(口が達者)であり、法によって束縛するのが難しい者たちです。しかも彼等は傲慢で己ばかりが正しいと信じており、下に置くことができません。盛大な葬儀を行って哀情を尽くし、厚葬のために破産を招くこともあるような教えを、俗(習俗。風俗)としてはなりません。儒者は各地を遊説しながら俸禄を求めていますが、彼等に国を治めさせることはできません。大賢がいなくなり、周室も既に衰退し、礼楽が失われて久しくなっております。今、孔丘は儀容服飾を盛んにし、登降の礼(入朝・退朝時の礼)や趨詳の節(朝廷で歩く時の決まり)を煩雑にしておりますが、これらは数世代にわたっても習得できるものではなく、一生かけても究めることはできないものです。主公は彼の教えによって斉の俗を変えようとしていますが、細民(民衆)を教導する良い方法とは言えないでしょう」


 この彼の言葉は儒者のことを的確に言っていることから孔丘が斉で評判になる中で彼のことを調べ上げていることがわかる。


 この晏嬰の諫言の後、景公は孔丘を敬うものの、礼について問うことはなくなった。


 後日、景公が孔丘に言った。


「汝を季孫氏のように遇することはできない」


 景公は魯の季氏と孟氏の間に相当する待遇をした。魯の三卿の中で季氏は上卿、孟氏は下卿にあたる。


 だが、この人事は中途半端であったと言える。この人事によって他の斉の大夫らを刺激してしまったのである。


 暫くして、斉の大夫が孔丘を害そうという動きが出始めた。景公は晏嬰に何とかならないかと尋ねたが、晏嬰は首を振るだけであった。


 そこで景公は孔丘を呼び言った。


「私は年老いてしまい。役に立たない」


 この言葉から孔丘は自分が害されようとしていることを察し、魯に還った。


 孔丘が始めて行った政治活動は失敗に終わったのであった。




 



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