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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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魯の昭公

 魯に鸜鵒が飛んできて巣を作った。

 

「鸜鵒」は「八哥」ともいい、本来は南方の鳥で、魯に巣を作るのは始めての事であった。

 

 魯の大夫・師己しきが言った。


「不思議なことだ。文公ぶんこう成公せいこう(魯の文公・宣公せんこう・成公の時代)の時にこういう童謡が歌われたという『鸜よ、鵒よ。公が国を出て辱めを受けん。鸜鵒の羽が育つ時、公は郊外に居て、臣下がそこに馬を届けん。鸜鵒が飛び跳ねる時、公は乾侯(晋邑)に居て、人に衣服を求めん。鸜鵒の巣ができる時、遥か遠くで裯父(魯の昭公しょうこうの名)が労して死に、宋父(魯の定公ていこう)が驕らん。鸜鵒よ、鸜鵒よ。去る時(昭公が国を出る時)は歌い、来る時(昭公が死んで遺体が還る時)は哭かん』このような童謡があるのだから、今回、鸜鵒が飛んできて巣を作ったのは、禍が及ぶ前兆かもしれない」


 七月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行い、季辛(下旬の辛日。辛亥。二十三日)に再び雩を行った。二回儀式が行われたのは、旱害がひどかったためである。

 

 以前、魯の季公鳥きこうちょう(季公若の兄)が斉の鮑国ほうこくの娘(季姒きじ)を娶り、子ができた。子の名は伝わっていないため、『春秋左氏伝(昭公二十五年)』には「甲」と書かれている。この「甲」とは「某」と同じ意味である。

 

 季公鳥が死ぬと、季公亥(季公若)が公思展こうしてん(季氏の一族)および季公鳥の臣・申夜姑しんやこと共に家を治めることになった。

 

 後に寡婦となった季姒が饔人(食官。季氏の飲食を担当する者)・檀と私通するようになった。彼女はそのことで、季公亥等に譴責されることを恐れるようになった。

 

 そこで季姒は妾(婢女)に自分を殴らせてから、魯の大夫・秦遄の妻(季公鳥の妹。秦姫)に言った。


「公若が私に関係を要求しましたが、拒否したため、こうして殴られました」

 

 また、公甫こうほ季孫紇きそんこつの子。季孫意如きそんいじょの弟。公甫の子孫は公甫氏を名乗るようになる)にもこう言った。


「展と夜姑が私に非礼を強要しようとしております」


 つまり二人が自分に対し、季公若との関係を持つことを強要していると彼女は訴えたのである。

 

 秦姫はこれを公之こうし(公甫の弟)に報告し、公之は公甫と共に季孫意如に告げた。

 

 訴えを信じた季孫意如は公思展を卞に拘留し、申夜姑も捕えて殺そうとした。そのことを知った季公若は泣いて、


「彼等を殺すことは、私を殺すことと同じだ」


 と言い、命乞いに行った。

 

 しかし季叔意如は豎(小吏)に命じて季公若の面会を拒否させた。日が昇って正午になっても季公若は面会ができない。その間に有司(申夜姑を捕えた官吏)が季孫意如の命を聞きに来たため、公之は速やかに申夜姑を殺すように指示した。

 

 この事件があってから季公若は季孫意如を怨むようになった。

 

 ある日、季孫氏と郈氏が闘鶏をした。


 季孫氏は鶏に「介」をつけた。「介」の解釈は二つある。一つは「芥(粉末)」に通じ、鶏に粉末をつけて郈氏の鶏の目をくらませたという説と「甲」に通じ、鶏に甲冑をつけたという説である。

 

 一方の郈氏は鶏に金距をつけた。金属で作った偽の爪である。

 

 結果は季孫氏の負けであった。

 

 怒った季孫意如は自分の屋敷を拡大し、郈氏の土地を奪ったうえ、郈氏を譴責した。こうして郈悪(孝公こうこうの子孫)も季孫意如を怨むようになった。


 またある日、襄公廟で褅祭を行った時、万舞を行う者は二人(または「二八」で十六人)しかいなかった。ところが季孫氏の家(私祭)では多数の者が万舞を披露した。

 

 臧孫賜ぞうそんしは、


「これでは先君の廟で祭祀を行いながらも先君の功労に感謝することができない」


 と批難した。このような出来事が重なったため、魯の大夫達も季孫意如を憎むようになっていた。

 

 季公若が公為こうい(昭公の子・務人)に弓を献上し、矢を射るために外出するように誘った。そこで季孫氏を除く相談がされた。公為は弟の公果こうか公賁こうふんに計画を伝え、二人は侍人・僚枏(昭公の従者)を通じて昭公に連絡した。

 

 僚枏は他者に覚られないため、夜になってから昭公に会いに行った。昭公は既に寝ていたが、僚枏の報告を聞くと戈を持って僚枏を撃とうとした。僚枏は慌てて逃走した。昭公は、


「捕えよ」


 と言ったが、正式な命令は出さなかった。

 

 その後、彼は恐れて出仕せず、数カ月にわたって姿を現わさなかったが、昭公は彼を譴責しようとはしなかった。

 

 暫くして僚枏が再び報告に行ったが、昭公はやはり戈を持って追い返した。

 

 三回目に彼が昭公に会いに行った時、昭公はこう言った。


「小人(従者・僚枏)が口出しすることではない」


 これを警戒心が強いと思うべきか。昭公がそんな調子であるため、公果が自分で昭公に季氏討伐の計画を話した。


 昭公はまず季孫氏と対立している臧孫賜に相談を持ちかけたが、臧孫賜は困難だと判断し、昭公は郈孫悪にも相談した。彼は成功すると判断し、昭公に実行を勧めた。

 

 昭公が子家羈(または「子家駒」。子家子。荘公の玄孫。魯の大夫で仲孫氏の一族。名が駒)に話すと、子家羈はこう言った。


「讒人(季氏を悪くいう者。公若や郈孫氏)は主公の徼幸(幸運)に頼っておられますが、事が成功しなかったら、主公が悪名を得ることになります。実行するべきではありません。民を棄てて既に数世になりますので、成功を求めても無理でしょう。政権は他者(季孫氏)の手にあります。計画は困難であると思われます」

 

 昭公が子家羈に退出を命じると、子家羈は、


「私は既に君命(陰謀)を聞きました。もしその言が洩れましたら、私は良い死を迎えることができないでしょう。私が秘密を漏らすことはありません」


 と言って、公宮に住み始めた。

 

 宋を聘問した叔孫婼しゅくそんしゃくが闞(魯邑)まで来た時、昭公は長府(府庫)にいた。

 

 九月、公室を支持する勢力が季孫氏を討伐のために動いた。彼らは宮門で公之を殺してそのまま進入した。

 

 季孫意如が楼台に登り叫んだ。


「主公は私の罪を調査せず、有司(官員)に干戈で臣を討伐させようとされております。私が沂水の辺で調査を受けることをお許しください」

 

 だが、昭公は拒否した。

 

 次に季孫意如が費邑(または「鄪邑」。季孫氏の采邑)で幽閉されることを求めても、昭公は拒否した。

 

 五乗の車で亡命することも、昭公は拒否した。

 

 その時、子家羈がそれを諫言した。


「主公は季孫氏の要求を許すべきです。政令が季孫氏から出るようになって久しく、隠民(困窮した民)の多くが季氏から食を得てきました。その徒者(一党)は多く、日が暮れてから彼らが事を起こすかもしれません。大衆の怒りを溜めてはなりません。怒りが溜まってからうまく処理できなければ、怒りはますます多くなり、民に叛心が生まれることになります。民に叛心が生まれて同じ要求(季氏を助けること)を持つ者が集まれば、主公は必ず後悔することになりましょう」

 

 しかし昭公は進言を無視した。

 

 郈孫悪は、


「ここで季孫氏を殺すべきです」


 と強く勧めた。

 

 昭公は郈孫悪を送って仲孫何忌ちゅうそんかきを迎えに行かせた。孟孫氏の協力を得るためである。


(今更、他の三桓の協力を得ようというのか)


 子家羈は嘆いた。昭公は季孫氏を討伐をするために回りくどいやり方を取っている。これでは季孫氏討伐は難しいと彼は思った。

 

 その頃、異変を聞いた叔孫氏の司馬・鬷戻が家衆に問うた。


「我々はどうするべきだ?」

 

 誰も答える者がいなかった。そのため再び問うた。


「私は家臣(叔孫氏の臣)であるため、国の事を知ろうとは思わない。だが、季孫氏が存続するのと居なくなるのとでは、どちらが叔孫氏にとって有利であろうか?」

 

 皆はこう答えた。


「季孫氏が無くなれば叔孫氏も無くなりましょう」

 

 鬷戻はその言葉に頷き、


「それならば、季孫氏を助けようではないか」

 

 そう言って彼は徒(歩兵)を率いて宮城の西北角を攻略し、宮中に入った。


 昭公の徒(歩兵)が甲冑を脱ぎ、冰(矢を入れる筒の蓋。水を飲む時にも使う)を持って跪いた。戦うつもりがないことを示す行為である。昭公側が一枚岩ではないことを彼らを見て判断した鬷戻は昭公の兵を解散させた。

 

 一方、仲孫何忌は部下を西北角の城壁に登らせ、季孫氏の家を確認させた。部下が西北角まで来ると、叔孫氏の旌(旗)がなびいているのが見えた。


「叔孫氏は季孫氏を助けるようです」


「そうか。わかった」

 

 叔孫氏が季孫氏を援けているという報告を聞いた仲孫何忌は、迎えに来た郈孫悪を捕えて南門の西で殺し、昭公の徒を攻撃した。

 

 季孫氏を助けるために仲孫氏、叔孫氏が救援を行ったことを知った昭公は驚き恐れて、出奔しようとしたため、子家羈が昭公に言った。


「諸臣が国君を脅迫して今回の事を起こし、その者(季氏討伐を首謀した者)らはすでに罪人の汚名を負って逃走したようにするべきです。主公は留まってくださいませ、今回の事で、流石の季孫氏も主公に仕える態度を改めることでしょう」

 

 しかし昭公は、


「私には季孫氏のいいなりになるのが堪えられない」


 と言うと、臧孫賜と共に祖先の墓陵に行き、祖先に別れを告げてから亡命の相談を始めた。


(この人には我慢ということができない)


 国君が乱を起こす相談されてしまった。それだけで今、自分は国に仇なす存在となってしまった。そのことを子家羈は嘆き悲しんだ。

 

 昭公は斉国境を越えて陽州(または「楊州」。元は魯邑。この時は斉邑)に至った。

 

 昭公出奔の情報は、斉の景公けいこうにも伝えられた。そこで景公は平陰で昭公を出迎えて慰労することにした。ところが昭公は既に平陰を通り過ぎて野井(済水東)に来ていた。

 

 景公は、


「これは私の罪です。有司(官員)に命じて平陰で待機させたのは陽州に近いからです。まさか魯公を野井で待たせてしまうことになるとは思ってもおりませんでした」

 

 と言い、お詫びとして昭公にこう約束した。


「莒境以西の千社(一社は二十五家、千社は二万五千家)を譲り、君命(季孫氏討伐の命)を待ちます。私は我が兵を率いて執事(魯の執政者。昭公)に従い、全ての命を聞きましょう。魯君の憂いは私の憂いです」

 

 昭公は喜んだ。今後、斉の協力を得ることができると思ったからである。しかし、子家羈はそれは甘いと考えていた。


「天の禄(福)は二度と降りてきません。天が主公を助けようとしても、周公(たん。魯の祖)を越えることはないため、魯を擁することができればそれで充分です。それにも関わらず、既に魯を失いながら千社を擁して臣下になれば、誰が主公を擁立するでしょう。そもそも斉君には信がありません。速やかに晋に行くべきです」


 斉の千社を受け入れるということは、斉の臣下になるということになる。周公の地を失って斉の臣になれば、二度と国君に戻ることはできなくなるだろう。戻ろうとしても果たして皆が望むとは思えない。


 しかし、昭公はこれに従うことはなかった。



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