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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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偉大なる礼

 紀元前517年


 春、魯の叔孫婼しゅくそんしゃくが宋に聘問に行った。

 

 叔孫婼が楽大心がくたいしんと会談した。楽大心は右師の官に就き、桐門(宋城北門)に住んでいたため、桐門右師とも呼ばれている。

 

 楽大心は宋の大夫を侮り、中でも司城氏を軽視していた。


 司城氏というのは楽氏の大宗である。かつて楽喜がくきが司城を勤めていたことが由来で、この時は楽喜の孫・楽祁がくきが継いでいる。


 楽大心はその楽祁と対立していた。

 

 会談を終えた叔孫婼が部下に言った。


「右師は亡命することになるだろう。君子は己の身を貴び、それを他の人にも及ぼすから礼が生まれる。今、彼は他国の使者である私の前で自分の大夫を侮り大宗を軽視する言を述べた。これは己の身を賎しめるのと同じことであるため、礼を守ることはできない。礼がなければ必ず亡ぶものだ」

 

 宋の元公げんこうが叔孫婼のために享(宴の一種)を開き、『新宮』を賦した。『新宮』は『詩経・小雅』に収録されていたらしいが、現代には伝わっていない。

 

 叔孫婼は『車轄(車舝。詩経・小雅)』を賦した。周人が賢女を求める詩とされている。


 そもそも彼は季孫氏のために宋から新婦を迎え入れるという任務があったため、この詩を賦したのである。

 

 翌日、宴が開かれた。「享」は立ったままの形式的な宴のことであり、「宴」は坐って行う酒宴のことである。

 

 酒がまわって楽しくなった時、元公は叔孫婼を自分の席の右に招いてき談笑した。しかし暫くすると二人は泣き始めた。

 

 宴礼の補佐をしていた楽祁は退席して知人に言った。


「今年中に、主公と叔孫は死ぬだろう。『哀しい時に楽しみ、楽しい時に悲しむのは、どちらも心を失っているからだ』という。精爽(精明)な心を魂魄というが、それが去ったのに長く生きることはできないだろう」

 

 かつて、季公若(魯の季公亥。季孫宿きそんしゅくの子)の同母姉が小邾夫人となり、宋元夫人(宋元公の夫人。曹氏そうし)を産んだ。宋元夫人は娘を産み、今回、その娘が季孫意如きそんいじょに嫁ぐことになった。

 

 叔孫婼が宋に聘問したのは、季孫意如のために宋女を迎えることが目的であったことは先に述べた。しかし叔孫婼に同行していた季公若が曹氏(宋元夫人)に婚姻を破棄するよう勧めた。


 何故、彼がそのようなことを言うのかと言えば、魯の昭公しょうこうが季孫意如を駆逐しようとしていたためである。

 

 曹氏がこれを元公に伝えると、元公は楽祁に相談した。楽祁は、


「与えるべきです(宋女を嫁がせるべきです)。もしそのようならば(本当に魯君が季孫氏を放逐しようとしているのならば)、逆に魯君が国を出ることになりましょう。魯の政は季氏三世(季孫行父きそんこうほ季孫宿きそんしゅく、季孫意如)にあり、魯君は四公(宣公せんこう成公せいこう襄公じょうこう、昭公)に渡って政を失っています。民がいないにも関わらず志を満足できる者は存在しません。だから国君は民を鎮撫する必要があるのです。『詩(大雅・瞻卬)』にこうあります『人を失うことが心の憂いとなる』魯君は民を失っておりますので、志を満足させることはできません。静かに命(天命)を待つのならまだ大丈夫でしょうが、動けば必ずや憂いを招くことになります」


 昭公と季孫側の争いは季孫側が勝つことになると彼は予感した。








 

 夏、晋の趙鞅ちょうおう、魯の叔詣(または「叔倪」)、宋の楽大心(または「楽世心」)、衛の北宮喜ほくきゅうき、鄭の子太叔および曹人、邾人、滕人、薛人、小邾人が黄父で会した。周王室の安定を謀るためである。

 

 趙鞅が諸侯の大夫に粟(食糧)と戍人(敬王を守る将士)の提供を要求し、


「明年、王を納める」


 と宣言した。

 

 泥沼と化している王室の内乱を彼は本気で鎮めてみせると考えていた。


(それができるのは、自分しかいない)


 彼は自信家である。

 

 そんな趙鞅は子太叔に会いに行った。


 子太叔は彼が自分よりも格上だと思っている数少ない人物である子産の後を継いだ人物なだけに、子太叔に興味があったのである。

 

 趙鞅は彼を試す気持ちを込めて、揖讓(主賓と賓客が会った時の礼義作法)と周旋(交際時の礼義作法)の礼について問うた。すると子太叔はこう答えた。


「それは儀であり、礼ではございません」

 

 予想外の答えであったため、趙鞅は問いかけた。


「それでは、何を礼というのでしょうか」

 

 子太叔が答えた。


「先大夫・子産はかつてこう申されました。『礼とは天の経(規範)であり、地の義(準則)であり、民の行(行動の根拠)である』と、民は天地の経に則り、天の明(英明)と地の性(本性。高低や柔軟等の特徴)に基づき、六気(陰陽・風雨・明暗)が生まれ、五行(金・木・水・火・土)が用いられます。気は五味(酸・鹹・辛・苦・甘)を作り、五色(青・黄・赤・白・黒)を発し、五声(五音。宮・商・角・徴・羽)を明らかにします。これら(味・色・音)が度を過ぎたら昏乱し、民はその性(本性)を損なうことになります。だから礼によって性を守らせるのです。六畜(家畜。馬・牛・羊・鶏・犬・豚)、五牲(通常の祭祀の犠牲。牛・羊・豚・犬・鶏)、三犧(天地・宗廟の祭祀で用いる犠牲。牛・羊・豚)によって五味を正し、九文(後述)・六采(天地・四方の色。青と白。赤と黒。玄と黄。玄は少し赤が混ざった黒)・五章(五色で作られた模様。青と赤の模様を「文」、赤と白の模様を「章」、白と黒の模様を「黼」、黒と青の模様を「黻」、五色全て使った模様を「繍」という)によって五色の規範を定め、九歌・八風・七音・六律によって五声を制御するのです」


 ここまでの彼の話に出てきた「九文」というのは九種類の模様のことで、龍・山・華蟲(花草や蟲)・宗彝(虎と蜼。蜼は尾長猿)・藻(水草)・火・粉米(白米)・黼(斧の形のような模様)・黻(弓を背中合わせにしたような形の模様)を指す。それぞれ衣服や旗等に描かれていたものである。


「君臣上下の関係は地の義に則り、夫婦外内(外内も夫婦の意味)の関係は二物(陰陽。剛柔)を経(法則)とし、父子・兄弟・姑姉(父の姉妹と自分の姉妹。家族の中で他姓に嫁ぐ者)・甥舅(舅は母の兄弟の意味)・昏媾姻亜(婚姻関係)は天明(天の英明)を象(模範)とし、政事・庸力(農工)・行務(日常の政務や一時的措置)は四時(四季)に従い、刑罰・威獄(牢獄)によって民を畏忌させるには震曜(雷電)の殺戮を真似し、温和慈愛は天が万物を産み育てる姿に倣うものです。民に好悪・喜怒・哀楽があるため、六気(陰陽・風雨・明暗の気)が生まれるのです。だから慎重に類似する事象に則って、六志(好悪・喜怒・哀楽)を制約しなければなりません。哀ならば哭泣し、楽ならば歌舞し、喜ならば施舍し、怒ならば戦います。喜は好(好むこと)から生まれ、怒は悪(嫌うこと)から生まれます。だから行動を慎重にし、命令には信があり、禍福によって賞罰を行い、死生を制約しなければならないのです。生は好物(好まれるもの)で、死は悪物(憎まれるもの)です。好物は楽となり、悪物は哀となります。哀楽が礼を失わなければ、天地の性を協調させて長久を得ることができましょう」

 

 趙鞅は彼の言葉を聞いて、


「礼とはなんと偉大なのだろうか」


 と感動を覚えながら言った。

 

 子太叔は頷き、


「礼とは上下の紀(綱紀)であり、天地の経緯(準則)でもあるので、民はそれを生存の依拠とし、先王も最も尊重したのです。だから己を曲げて礼に近づくことができる人を『成人』と申します。礼が偉大であるのは当然のことでしょう」


 と言った。

 

 趙鞅は感動に包まれながら、


「私は終身この言を守ろうと思う」

 

 と言った。彼の長い人生で最も感動した瞬間と言えば、この時であろう。同時にこの礼の体現者であっただろう子産という男の巨大さを理解した。


(人の偉大さというものは遠く離れた時によくわかるものなのか)


 趙鞅にとって子産は超えるべき壁であった。同時に彼にとって尊敬すべき相手になったのは、この時であった。


(そんな相手に成文法をよく批難したものだ)


 かつての自分に恥ずかしさを思いつつ、その時の自分の言葉を真剣に聞いてくれた子産の姿が思い出す。


(今の私では、まだ超えることはできないな。だが、いつの日か超えてみせる)


 この男らしい考え方である。

 

 趙鞅が帰国した後、宋の楽大心が晋に伝えた。


「我々には粟(食糧)を提供するつもりがありません。何故ならば、宋は周の客だからです。なぜ客に指示をするのでしょうか」


 彼の言う客というのは、宋が商王朝の後裔の国であり、周王室が宋を賓客として遇してきたためである。

 

 晋の士彌牟しびぼうが彼の対応を行い、言った。


「践土の会以来、宋が役に参加せず、盟を結ばなかったことがあるでしょうか。盟約では『王室のために共に心を尽くす』と約束されておりますが、あなたはそこから逃げようというのでしょうか。あなたは君命を奉じて大事(諸侯の会。王室を助けること)に参加されました。それにも関わらず、宋が盟に背いていいとあなたは思うのですか」


 宋が築き上げてきた信頼をここであなたは打ち壊そうとしていると彼は批難したのである。

 

 楽大心は答えることができず、牒(命令が書かれた簡札)を受け取って帰国した。

 

 その後、士彌牟の元を訪れた趙鞅にこのことを話し言った。


「宋の右師(楽大心)は必ず亡命することになりましょう。君命を奉じて使者になりながら、盟約に背いて盟主に干渉しようとした。これよりも不祥なことはないでしょう」


「全くだ。厚顔無恥とはこのことをいうのであろうよ」


 趙鞅は吐き捨てるように言いながら、そもそも士彌牟の元に訪れた要件を話し始めた。


「私に書物を貸してもらいたいのだが、よろしいだろうか?」


「私は構いませんが、なぜ、私の元に参られたのでしょうか?」


 士彌牟としては、自分ではなくとも例えば、士鞅しおうなどがいる。それにも関わらず自分を訪ねたことに疑問を覚えた。


「あなたの家は代々、法に関わってきた家だ。そのため礼の書物と法に関わる書物も多いと思いましてな」


 趙鞅の性格的には、士鞅あたりには頭を下げる人ではなさそうだが、彼はそう言った。


「なるほど承知した。では好きなだけ持って行ってくだされ」


 そう言って士彌牟は書物の保管庫に案内した。


「かつて我が先祖の士渥濁(しあくだくの元に士会しかい様がよく訪れ、書物を借りたといいます」


「ほう、左様であったか」


 士会と言えば、晋の人なら知らない者はいないという人物である。もし、国が誇るべき名臣と言えばと人々に問いかければ皆、士会の名を上げる。


(これほど好まれた人物というのも稀であるな)


「で、士会様はよくここで書物を読まれていたと聞いております」


 士彌牟の示すところは書物の保管庫であった。


「ここで……」


 多くの書物に囲まれた部屋であった。そこで士会が書物を読んでいたそう思うとまるで目の前に士会という人がいるかのような錯覚を覚える。


(どんな人であったのだろうか)


 ふと、祖父であった趙武ちょうぶの言葉を思い出した。


「『謀に長けし者は礼を知らねばならぬ』であったか」


 趙鞅はそう呟くと、士彌牟が言った。


「その言葉は、士会様が仰っていた言葉ですな」


 その言葉に趙鞅は驚いた。


(士会の言葉であったか……)


 なぜ、その言葉を祖父は自分に伝えたのかはわからない。だが、その言葉が自分の戒めの言葉であることは理解できた。


(『謀に長けし者は礼を知らねばならぬ』か……お祖父様、士会様、その教えしかと心に刻みます)


 彼はその言葉の戒めを守るように礼を学び続けた。やがてその言葉は、息子の趙無恤ちょうむじゅつに伝わることになる。





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