表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

441/557

玉が石に変わる

 晋の士彌牟しびぼうが箕に拘留している魯の叔孫婼しゅくそんしゃくの釈放が決まったため、彼を迎えに行った。

 

 叔孫婼は士彌牟が来ると知るとその意図を知らないため、臣下の梁其踁を門の中に潜ませてこう命じた。


「私が左を見て咳をしたら彼を殺せ。右を見て笑ったら動くな」

 

 その後、彼が士彌牟に会うと、士彌牟が言った。


「我が君は盟主であるためにあなたを久しく留めることになった。もうすぐ我が国の粗末な礼物が従者に贈られることになる。我が君が私に命じられ、あなたを迎えに来させたのだ」


 彼の言う礼物とは、餞別の礼のことである。礼物は叔孫婼に贈られるのだが、そのことへの直言を避けて従者や左右に贈ると表現するのが当時の礼義であった。


 叔孫婼は右を見て笑ってから礼物を受け取って魯に帰っていった。

 

 三月、晋の頃公けいこうが士彌牟を周に派遣して周の敬王けいおうと王子・ちょうの対立について調査させた。

 

 士彌牟は乾祭門(王城北門)に立って大衆の意見を聞くことにした。すると大衆は、王子・朝の非を彼に訴えたため、晋は彼の報告を踏まえて、王子・朝への協力を拒否し、その使者も受け入れないことにした。

 

 五月、日食があった。

 

 魯の梓慎ししんは、


「水害があるはずだ」


 と言った。日食は陰の月が陽の日を隠すため、陰が強くなると考えられている。水は陰にあたる。

 

 しかし叔孫婼がこう言った。


「旱害であろう。日が春分を過ぎたにも関わらず、まだ陽が勝てないでいる。だから鬱積された陽が勝つ時は大きく勝ち、必ず旱害が起きる。陽が時を過ぎたにも関わらず、勝てないのは、陽を集積しているからだ」


 叔孫婼のこの予言は的中し、旱害に襲われたため、八月に魯は大雩(雨乞いの儀式)を行うことになる。

 

 六月、周の王子・朝が瑕と杏(どちらも敬王の邑)を攻撃し、壊滅させた。

 

 鄭の定公ていこうが晋に趣いた。それに同行していた子太叔したいしゅくが晋の士鞅しおうに会うと、士鞅が問うた。


「王室はどうなるでしょうか」

 

「私には自分の国と家のことも顧みることができないでいるのに、どうして考えが王室に及ぶだろうか。こういう言葉がある。『寡婦は緯(織物の糸)が足りないことを心配せずに宗周の衰落を心配している。禍が己に及ぶことを恐れるためである』と此度、王室が動揺して我々小国も恐れていますが、大国の憂いは我々には分からないことです。あなたは早く謀るべきです。『詩(小雅・蓼我)』にこうあります。『缾が空なのは、罍の恥』と、王室が安定しないことは、晋の恥ではありませんか」


『詩(小雅・蓼我)』の「缾」とは小さな酒器のことで、「罍」は大きな酒器のことである。缾の酒は罍から注がれるものであり、缾の酒が無いということは、罍が酒を注がない、または注げないからで、それは罍の恥になるという意味の詩である。


 ここでは缾は周、罍は晋の比喩である。

 

 士鞅は納得して韓起かんきと相談し、来年、諸侯と会合することにした。

 

 八月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行った。叔孫婼(昭子)の予言が的中して旱害に襲われたためです。

 

 十月、周の王子・朝が成周の宝珪(玉器)を黄河に沈めて福を祈った。

 

 翌日、津(黄河の港。恐らく盟津)に住む者が黄河で宝珪を得た。それを知った敬王の大夫・陰不佞いんふねいが温人を率いて南侵し、玉を得た者を捕えた。


 陰不佞は奪った玉を売ろうとしたのだが、その時に不思議なことが起きた。玉が石に変わったのである。


 この玉が石になったというのは、黄河の神が王子・朝の玉を受け入れず、石に変えたという意味と取れる。

 

 後に敬王の地位が安定すると、陰不佞は石(宝珪)を敬王に献上した。敬王は喜び、陰不佞に東訾の地を与えたという。


 

 

 

 楚の平王へいおうが舟師を率いて呉の国境を侵した。


 この出兵の理由は、呉の辺境の邑・卑梁と楚の辺境の邑・鍾離の女や小童が桑を巡って争ったことから起きたことが原因である。


 この時争った娘や子供たちの両家が激怒し、互いに攻撃し合い始めた。そして、鐘離の人が卑梁の家族を皆殺しにした。


 それを聞いた呉の卑梁大夫(邑長)は怒って国に対し、兵を求めた。


 この時の呉の上層部は現地の人々よりは冷静であった。先ずは卑梁大夫を落ち着かせようとした。しかし、国が動かないというのならと卑梁大夫は邑兵を動員し、鍾離を攻撃してしまった。


 平王はこのことを知ると怒りを覚え、侵攻したのである。

 

 この出兵に対し、沈尹・じゅつは嘆いた。


「この出征で楚は邑を失うだろう。民を慰撫することもなく逆に疲労させ、呉に動く気配がないにも関わらず、出兵を促している。それに、もし呉が楚を追撃しようとも、疆場(国境)に備えがない。これでは、邑を失わないはずがない」

 

 越の大夫・胥犴しょかんが豫章の汭(川が曲がる場所)で平王を慰労した。越の公子・そうが楚平王に舟を贈った。


 また、公子・倉と寿夢じゅぼう(越の大夫)が越兵を率いて平王に従った。


 平王はそのまま卑梁を滅ぼし、圉陽(楚地)に至ってから兵を還した。


 その報告を聞いた呉王・りょうも激怒し、楚への報復を決め、公子・こうに楚の国境に侵攻させた。


 国境には備えがなかったため、呉は巣と鍾離を攻略することに成功した。

 

 沈尹・戌はこの結果を受け、


「郢(楚都)の滅亡はここから始まる。王は一度動いて二姓の帥(巣と鐘離を守る大夫)を失っている。これが繰り返されれば、郢に及ぶだろう。『詩(大雅・柔桑)』にはこうある『誰が禍を招くのか。今に至るまで苦しんでいる』これは王のことを言っているのだろう」

 

 この戦から呉と楚の争いが更に加熱していくことになる。

 


 


 


 



 

 

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ