老聃
紀元前518年
正月、周の召伯・盈(簡公。召の荘公・奐の子)と南宮嚚(南宮極の子)が甘の桓公(甘の平公の子)を王子・朝に推挙した。
この事を知った劉狄が萇弘にため息をつきながら言った。
「甘氏も去ってしまった」
しかし、萇弘は、
「害はございません。同じ徳を持つ者は義も共にするもの。『太誓(尚書・泰誓)』にこうあります『紂には億兆の人がいたが、徳から離れていた。私には乱を治める臣が十人しかいなかったが、心も徳も一つであった』これが周が興隆した理由です。あなたは徳に務めるべきであり、人がいないことを心配する必要はございません」
二月、魯の仲孫貜が死に、子の仲孫何忌が後を継いた。
「兄上、では参りましょう」
弟の南宮敬叔の言葉に彼は頷いた。
「あれはなんだ」
子路を始め、孔丘の弟子たちはとても高貴な馬車が孔丘の家前にあることに驚いていた。
「仲孫家の馬車だ」
そう言ったのは、左丘信である。その傍には左丘明もいる。
「仲孫家、というと三桓の」
「そうだ」
「何故、三桓の方の馬車があるのですか」
「仲孫家の先代からの遺言で、孔丘殿の教えを頂きたいとのことだ」
左丘信がそう言うと弟子たちの間で、歓声が涌いた。
「流石は俺たちの先生だ」
子路は一番に喜ぶ中、顔路が心配しそうな顔をした。
「しかし大貴族の方に教えを授けるようになると前のように我らに教えを授けてもらえるのだろうか」
彼の言葉に弟子たちは顔を俯いてしまう。
「大丈夫だ。孔丘殿は、仲孫家の二人が参られて、屋敷で教えを頂くことを言われたそうだが、断ったそうだ」
「それは本当か」
「ああ、汝らがいるから特定の者のみに教えを授けるといったことはしないそうだ」
その言葉に弟子たちは安堵した。
すると仲孫何忌と南宮敬叔の二人が孔丘の屋敷を出てきた。
「皆様方、あなた方の先生は素晴らしい方だ。今後、共にあなた方と先生の元で学ばせていただきたいと思う」
「兄と共にお願いいたします」
二人はそう言って、去っていった。
後日、孔丘の元で弟子たちが学ぶ傍で、仲孫何忌と南宮敬叔の二人も共に学ぶようになった。
そんなある日、南宮敬叔が魯の昭公に、
「私を孔丘と共に周に行かせてください」
と願った。彼は孔丘がまだ、周に行ったことがないことを話しをするうちに知り、魯が周へ使者を派遣する話しが持ち上がっていたこともあり、それを利用しようと思ったのである。
同意した昭公は一乗の車、二頭の馬と一人の豎子(童僕)を与えて孔丘と仲孫何忌と南宮敬叔を周に派遣した。
「周に行くのは、危険ではないか。あそこは今、内乱の最中だと聞くが」
左丘明は心配そうに言うが、
「流石に都は大丈夫であろうよ。それに今のうちに周の都の風景を見ておきたい」
孔丘はそう言って、周に出向いた。
「ここが周か」
孔丘は周の都を眺めた。
(本来は王都というべきところであるのに、人々にはその誇りのようなものを感じることができない)
かつての栄光の輝きはここにはない。
(それでも礼はまだ残っているはずだ)
礼は永遠に不滅である。例え、物が壊れようとも国が滅びようとも礼は残り続ける。
(今のうちに学ばねばならない。残らされている礼を)
孔丘は周にいる者の中で、礼に詳しいという人物の元に出向き、礼を学んだ。
「なんと熱心な方だろうか。あれほどの学識を有しながら、なお学ぼうとされている」
「ええ兄上」
自分たちの師匠の姿に仲孫何忌と南宮敬叔は感銘を受けた。
そのように孔丘は礼に学んでいく中、礼学者からある学問の存在を知った。
「道徳とはどのような学問でしょうか」
その学問は道徳という。
「どのような学問と言われましても、難しいのですよ。あれは、具体的に何を教えているのか。私どもにはわからぬのです」
道徳は一言で何かということを言うのは、難しい学問と言えた。
「そのような学問があるのですか」
「ええ、ただその学問を学んだという方ならおります」
興味を抱いた孔丘は言った。
「その人物のことを教えていただいてもよろしいでしょうか」
「その方は、老聃と申します。彼は周の藏書室を管理する史官を勤めております」
早速、孔丘は老聃を訪ねるため、藏書室に向かった。
藏書室に着くと、そこには白い髪と同じく白く長い髭を生やした男がいた。
「あなたが、老聃殿でしょうか」
「左様だが、汝はどなたかな」
「私は魯の孔丘と申します。此度、参りましたのは、礼についてあなたから学びたいと思い、参りました」
「礼とは何かを学びたいということかね」
「左様です」
彼の言葉に老聃は髭を撫でながら、言った。
「無意味だな」
その突然な言葉に孔丘は一瞬、動揺したが、
「無意味とはどういう意味でしょうか」
と問いかけた。すると老聃は答えた。
「汝が語っている礼のことは、その人も骨も既に朽ち果て、その言葉だけが残っているだけだからだ」
そもそも礼を提唱した人はもはやこの世の者ではない。それなのに礼の真意などを知ることはできないのである。
「君子とは、時を得れば(明主に巡り逢えたら)車に乗って出仕し、時を得ることができなければ、蓬が風に吹かれるように居場所を定めないものだ。良い貨物は奥深くに隠されて存在しないかのようであり、それと同じように、君子は盛徳があろうとも、その容貌は(能力を表に現さず)愚者のようであるものだ。汝は驕気と多欲を除き、態色(志に満ちた様子)と淫志(放蕩な心)を除くべきだ。これらは汝の身に対して無益なものなのだ。私が汝に語ることは、これだけだ」
老聃は孔丘という人物の能力を認めつつも、同時にその能力を見せつけるような真似をするなと苦言をしたのである。
(私に驕りがあったか)
孔丘は老聃の言葉を聞き、そう思った。彼は弟子が多くなったことからそういう部分が出始めていたのかもしれない。
その様子を見て老聃は口を開いた。
「富貴の者が人を送り出す際は財を用い、仁の者が人を送り出す際には言を用いるという。私は富貴の者ではないため、僭越ながら仁人の名号を借りて汝に言を送ろう。『聡明で深く察することができる者は死に近い。なぜならば、そういう者は議論を好むためだ。博学で弁が立ち、見識が多い者は身を危険にする。そういう者は人の欠点を暴くためだ。人の子として存在する者は、己の存在を無くして父母に仕え、人の臣として存在する者は、己の存在を無くして主君に仕えよ』」
父母の前であろうとも主君の前であろうとも、己を突出させてはならない、己の存在が大きくなればなるほど危険に近くなる。
まるで孔丘の未来でも見ているような言葉である。
「教え感謝します」
孔丘は老聃との対話の後、周を去り、弟子たちにこう語った。
「鳥が飛ぶことができると私は知っている。魚は泳ぐことができると私は知っている。獣は走ることができると私は知っている。地を走る物は罔(網)で捕まえることができ、水中を泳ぐ物は綸(釣り糸)で釣ることができ、空を飛ぶ物は矰(矢)で落とすことができる。されど龍というのは、私には知ることができない。龍は風雲に乗って天に登るからである。私が会った老聃という方、まさに龍のような人物であった」
孔丘が去った後の老聃について述べる。
彼は久しく周にいたが、周王室の衰えを見て去ることにした。
西に向かって函谷関(または「散関」)に至ると、関令・尹喜が彼を止め、
「あなたは隠れようとしておりますが、どうか私に書を著してください」
と願った。
すると老子は上下二篇の書を書いて「道徳」の主旨を五千余字にまとめてから関を去った。その時、老子は青い牛に乗っていたと言われている。
そうして周を去った彼はやがて自分の師である常摐が病にかかったと聞き、会いに行った。
「先生の病はひどくなろうとしておられますが、諸弟子に残す教えはございませんか?」
老聃がそう言うと常摐は言った。
「汝が問わなくとも、私は汝に話そうと思っていた。故郷を車で通ったら車から下りるものである。そのことを汝は知っているか?」
「故郷を通った際に車から下りるのは、故(旧事)を忘れないためではありませんか」
常摐は嬉しそうに、
「その通りだ」
と言い、更に続けた。
「喬木(大木)の前を通る際は、小走りになるものである。汝は知っているか?」
「喬木の前を通る際に小走りになるのは、老齢の者を敬うためではありませんか」
古代中国では、貴人や年配者の前では小走りで移動するのが礼とされていた。
常摐はまたもや嬉しそうに、
「その通りだ」
と言うと、口を開けて老聃に見せた。
「私の舌はあるか?」
「当然あります」
「私の歯はあるか?」
「ありません。」
「汝はそれが何故か分かるか?」
と常摐が問うと、彼はこう答えた。
「舌が存在しているのはそれが柔らかいからではないでしょうか。歯が無くなったのはそれが剛(堅い)であったからではありませんか」
常摐は笑みを浮かべた。
「その通りである。汝は天下の事を全て知り尽くしている。これ以上、汝に語ることはない」
剛強な物は亡びやすく、柔軟な物は永く存続することができるという道家の思想を伝える話しである。
その後、老聃がどこへ行き、どこで死んだかは不明である。




