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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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雞父の戦い

 四月、周の単旗ぜんきが訾を取り、劉狄りゅうてきが牆人と直人(どちらも地名)を取った。三邑とも王子・ちょうが領有していたところである。

 

 六月、蔡の悼公とうこうが死に、悼侯の弟のしんが即位した。蔡の昭公しょうこうという。

 

 周の王子・朝は京から尹(周の世卿・尹氏の邑)に遷った。

 

 尹圉いんぎょ劉佗りゅうた(劉狄の一族)を誘い出して殺した。

 

 そのことに怒った単旗は阪道から、劉狄は尹道から尹を討伐した。単旗が先に尹に到着したが、潜んでいた王子・朝の軍が現れ、敗れた。これを知った劉狄は兵を還した。


 尹圉が劉佗を殺したのは、彼らをおびき出して、伏兵で彼らを殲滅しようとしたのである。

 

 召伯奐しょうはくかん南宮極なんきょうきょく(どちらも周の卿士。王子朝の党)が成周の兵を率いて尹の守備を固めた。


 単旗、劉狄、樊斉はんせいが王子・朝を避けて敬王けいおうと共に劉(劉氏の邑)に遷った。

 

 王子・朝が王城に入り、左巷(東城附近)に駐軍した。

 

 七月、周の大夫・鄩羅が王子・朝を荘宮に入れた。


 尹辛いんしんが劉氏の軍を唐(周の地)で破り、続けて鄩の地でも劉氏の軍を破った。

 

 彼の進撃は更に続き、西闈を取ってから蒯を攻め、蒯は崩壊させた。

 

 劉氏が敗戦を重ね、王子朝の勢力が盛り返したため、敬王は王子・朝を避けて狄泉(翟泉。沢邑。成周城外)に遷った。

 

 尹氏が王子・朝を即位させた。


 周の内乱は更に泥沼の様相を見せ始めていた。





 莒の共公きょうこうは前年、斉に大敗したため、国人の支持を失っていた。しかも共公は元々残虐な性格で、剣を愛していた。


 彼は新しい剣ができると人を斬って試したため、ますます国人に憎まれるようになった。共公は斉にも背こうとした。斉とは前年盟を結んだばかりであるにも関わらずである。

 

 見かねた莒の大夫・烏存うそんが国人を率いて共公を追放した。

 

 共公が国を出る時、烏存が殳(槍に似た武器)を持って道の左に立っていた。共公は殺されるのではないかと恐れたが、それを見て大夫の苑羊牧之が言った。


「進むべきです。烏存は勇力によって名を知られれば充分だと思っております。主公を弑殺して名を成すつもりはないでしょう」

 

 共公は魯に出奔した。

 

 斉が亡命していた郊公こうこうを莒に帰国させた。







 呉が楚の州来を攻撃した。

 

 楚では令尹・子瑕しかが病だったため、司馬の薳越いえつが楚の平王へいおうの命を受けて楚軍を率い、諸侯の軍と共に州来に駆けつけた。

 

 呉軍は鍾離に駐軍して守りを固めた。

 

 暫くして令尹・子瑕が死んだため、彼は楚軍で尊敬を受けていただけに楚軍の士気が下がった。

 

 この楚軍の様子を知ると呉の公子・こうが言った。


「多くの諸侯が楚に従っていますが、それらは全て小国であり、楚を恐れて仕方なく従っているだけでございます。『事を起こす時、威信が感情に勝れば、自身の力が小さくても成功できるものだ』と申します。胡と沈の国君は幼いうえに狂(軽率)であり、陳の大夫・齧は強壮であるものの、頑固で融通がききません。頓と許、蔡は楚の政治を憎んでいます。最近、楚の令尹が死んだため、楚軍の士気が落ちています。しかも、将帥は地位が低いにも関わらず寵を受けており、政令は一定せず、七国(楚・頓・胡・沈・蔡・陳・許)は共に兵を出しているものの、同心ではございません。将帥の地位が低ければ兵を整えることができず、命にも威信がありません。今なら楚を破ることができましょう。軍を分けてまず胡・沈・陳の陣を攻めれば、三国は必ず真っ先に奔走しましょう。三国が敗退すれば諸侯の軍は動揺し、諸侯が混乱すれば、必ず楚も壊滅します。先行する部隊に警戒を解かせて軍威を薄くすることで、敵を誘い出し、その後ろに陣を厚くして隊列を整えた部隊を置きましょう」

 

 呉王・りょうはこの計に従い、呉軍と合流した。

 

 両軍は雞父(または「雞甫」。楚地)で会戦した。

 

 呉王・僚は罪人三千に胡・沈・陳の陣を攻撃させた。訓練を受けていない囚人の集団は隊列が乱れており、まともに戦える状況ではなかった。三国は争って呉人を捕虜にした。

 

 しかし囚人三千人の後ろに呉の三軍が続いた。


 中軍は呉王・僚、右軍は公子・光、左軍は掩餘(呉王・寿夢の子)が率いる。


 呉の囚人が三国の陣内で無秩序に動いているため、三国の軍は混乱に陥った。そこを呉の正規軍に襲われたため、三国は大敗してしまった。


 胡君・髠、沈子・逞(または「盈」「楹」。沈国の主)と陳の大夫・夏齧が捕えられた。三人とも呉は処刑した。

 

 呉軍は胡と沈の捕虜を釈放し、許・蔡・頓の陣に走らせて、


「我が君が死んだ」


 と叫ばせた。

 

 その後ろで呉軍が戦鼓を敲き、喚声を挙げる。

 

 許・蔡・頓三国の兵は恐れて敗走し、楚軍も退却した。

 

 呉の大勝であった。しかし、この大きな勝利は公子・光の名声を大いに上げることになったため、呉王・僚としては彼に対し、忌々しい感情を抱いていた。


 そんな中、公子・光は、


「このまま楚へ追撃をかけるべきです」


 と進言を行った。


「良かろうやってみよ」


「感謝します」


 公子・光は軍を率いて、追撃を仕掛けた。


「やつめ」


 忌々しいことこの上ないが、軍で名声を持っているだけに彼を始末することも難しかった。







 八月、魯で地震があり、数日後に周でも地震があった。その時の地震で家屋が倒壊して南宮極なんきゅうきょく(王子・ちょうの党)が命を落とした。

 

 周の萇弘が劉狄りゅうてきに言った。


「あなたが努力すれば、先君(劉摯)が目指したことがきっと実現しましょう(劉摯は王子・朝の即位に反対し、王子・猛を立てようとしていたが、実現する前に死んでしまった)。周が滅ぶ時(周の幽王ゆうおう時代)、三川(涇水・渭水・洛水)で地震がありました。今回、西王(王子朝)の大臣(南宮極)がいる場所で地震があったことは、天が彼等を棄てたからです。東王(敬王。狄泉が王城の東にあったため、東王といる)が必ず大勝しましょう」






 さて、追撃を行っている公子・こうだが、彼らは勝算もなく追撃を行っていたわけではなかった。


 彼は郹に至ると、


「開門」


 と叫ぶと郹の門が開き、彼らを入れた。


 実は楚の平王へいおうは秦女を娶って太子・けんを廃してから、その母を実家の郹(蔡地)に帰らせていた。

 

 建の母はこのことから楚を怨んでいたため、呉と通じるようになり、城門を開き、呉軍を誘い入れたのである。


「まあ、ここまでやれば良かろう」

 

 十月、呉軍は郹に入り、楚夫人(建の母)と宝器を奪って撤兵した。


 楚の司馬・薳越いえつが呉軍を追撃したが、追いつけなかったため自殺しようとした。

 

 周りの者が止めた。


「呉を攻撃すれば、あるいは勝てるかもしれません」


 功績を立てて罪から逃れられるかもしれない。それからでも遅くはないと彼らは言ったのである。

 

 しかし薳越はこう言った。


「もしも再び楚王の軍を敗れさせれば(既に州来で大敗している)、死んでも罪を償えなくなるだろう。国君の夫人を失ったのだから、死なないわけにはいかない」

 

 薳越は薳澨(漢水東岸の地)で首を吊って死んだ。


 楚は囊瓦(子常しじょう)を令尹に任命した。囊瓦は令尹・子囊(公子・貞)の孫である。

 

 子囊は死ぬ前に、首都・郢に城を築くように遺言していた。

 

 囊瓦も呉の攻撃を恐れて郢城の増築を進言し、平王はこれに従った。

 

 沈尹・じゅつは、


「子常は郢を失うことになるだろう。元々守ることができないのだから、城壁があっても無意味ではないか。古では天子の守りは四夷にあったが(徳が広く伝わり、四夷が天子の守りとなっていたが)、天子が衰えると守りは諸侯に移り(天子の徳が衰えたため四夷が背き、諸侯が四夷の侵攻を防ぐようになり)、諸侯の守りは四鄰に置かれた(四方の隣国が互いに守り合い、天子を助けた)。更に諸侯が衰えると守りは四境に移った(諸侯の徳が衰えると、諸侯は天子を守らず自分の国境を守るようになった)。諸侯が四境を警備し、四援(四方の隣国の援助)を受ける中で、民は自分の野(地)に安住して三務(春・夏・秋の農事)を行い、収穫するようになった。民に内憂も外患もなければ、国に城壁は必要ないのだ。今、呉を恐れて郢に城を築き、小さい範囲を守ろうとしているが、諸侯が衰えた時の範囲(四境。国境)も守らないようでは、どうして滅ばずにいられるだろう」


 彼は国境を疎かにして国都の城壁だけを高くしても国を守ることはできないではないかと子常の進言を批難した。


「昔、梁伯は公宮に溝を作って民を瓦解させた(紀元前641年)。民が上(国君)を棄てても滅ばないとすれば、何を待つというのか(民が上を棄てたら滅亡を待つしかない)。国境を正し、土田(土地)を修め、走集(国境の塁壁)を堅固にし、民と親しくし、伍候(四方と国内の眺め、情報)を明らかにし、隣国に信を築き、官吏を職責に対して慎重にさせ、交礼(交際・交接の礼)を守り、僭(礼から外れること)にならず、貪(貪婪)にならず、惰弱にならず(他国の辱めを受けず)、強暴にならず、自分の守りを完成させて不虞(不測の事態)に備えれば、何も恐れることはないではないか。『詩(大雅・文王)』にはこうある『汝の祖先を想い、その美徳を修めよう』と、若敖、蚡冒や武王、文王(四人は楚の先君で、賢者として称えられている)を見れば分かることだ。当時の土地は同(百里四方)を越えなかったが、四境を警戒するだけで郢に城を築かなかった。今は数圻(数千里)の土地を擁しながら、郢に城を築こうとしている。これで安泰を求めても、難しいことであろう」


 この先、国境での争いによって楚は追い込まれ、滅亡に追い詰められていることを彼は予感したのである。







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