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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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周の内乱

 この年、端木賜(字は子貢)が産まれた。後に孔子の弟子となる人物である。


 魯の叔鞅しゅくおう叔弓しゅくきゅうの子)が京師(周都)に入って周の景王けいおうを葬送した。

 

 その頃、王子・ちょうが旧官や百工の中で職を失った者、および霊王れいおうと景王の一族を集めて彼らを煽って挙兵した。


 彼は郊邑、要邑、餞邑の甲士を指揮して劉狄りゅうてきを追い出した。

 

 劉狄は揚に逃走した。

 

 この事態に単旗ぜんきが荘宮(王城)で周の悼王とうおうを迎えて家に連れて帰ったが、王子・かんは夜に乗じて悼王を連れ戻し、荘宮に入れた。


 王子・還は王子・朝の党である。悼王が単旗と一緒にいたら単旗が王命を発する立場になってしまうため、彼から離れさせたのである。

 

 悼王を失ったことを知ると単旗は出奔した。

 

 王子還が召伯奐しょうはくかん荘公そうこう)と謀り、


「単旗を殺さなければ勝ったとは言えない。改めて盟を結ぶと伝えれば、彼は必ず来るだろう。盟を破って勝った者も多い、盟を偽っても気にする必要はなかろう」

 

 単旗と偽りの盟を結んで和解するということで、王城に呼び戻してから殺すということである。召伯奐は同意した。

 

 これを知った樊斉はんせい(単氏・劉氏の党)が言った。


「これは正しい言ではない。彼等が勝てるはずがない」


 と反感を抱き、使者を単旗に出した。

 

 王子・朝は悼王の命と称して単旗を追い、領(轘轅山。周地)に至って盟を結んだ。この時、王子・朝は摯荒に単氏との対立の責任があると言って釈明し、摯荒を殺した。


 偽りの盟のために偽りの罪で殺される。憤りを覚えるべき行いである。

 

 王子・朝等は王城に帰り、劉狄は揚から劉(劉氏の采邑)に戻ったが、単旗は樊斉から王子・朝等の陰謀を知らされ、単旗が平畤に奔った。


 気づかれたと思った諸王子は彼を追撃した。しかし単旗はこれを迎撃し、これを打ち破って還、姑、発、弱、鬷、延、定、稠(八人とも王子。霊王と景王の子)を殺した。


 その報告を受けると王子・朝は京(地名)に奔った。

 

 続けて単旗は京を攻めた。京人は山(恐らく北山)に逃走をする。王子・朝がいなくなった隙に、劉狄が王城に入った。

 

 しかし、ここで王子・朝の反撃が始まり、周の卿士・鞏の簡公が京で王子・朝に敗れ、同じく卿士の甘の平公も敗れた。

 

 魯の叔鞅が京師から魯に帰り、王室の乱を報告した。

 

 大夫・閔馬父びんばほが言った。


「王子・朝は勝てないだろう。彼に協力しているのは、天が廃した者(旧官や職を失った百工)ばかりだからだ」

 

 王子・朝の反撃に単旗は晋に急を告げるた。

 

 七月、単旗と劉狄が悼王を奉じて平畤に入り、圃車に遷ってから更に皇(鞏県附近)に移動した。

 

 劉狄は再び劉に入った。

 

 単旗は王子・しょに王城を守らせ、平宮(平王廟)で百工と盟を結ばせた。

 

 大夫・鄩肸(子朝の党)が皇を攻撃したが、大敗して捕えられた。単旗は王城の市で鄩肸を焼き殺す。

 

 八月、司徒・しゅうが王軍を率いて王子・朝を攻撃したが、前城で敗れた。それを見た百工がまた叛した。

 

 百工が単氏の宮(屋敷)を攻撃したが、単旗はよく守って、これを敗った。

 

 直ぐ様、彼は反撃し、東圉を包囲した。

 

 十月、急を告げられた晋は籍談せきだん荀躒じゅんれきに九州の戎(元は陸渾の戎。晋に滅ぼされてから晋の州に配されていた。州は郷の下の行政単位で、五州で一郷になる)と焦・瑕・温・原の士卒を率いさせ、悼王を王城に入れた。

 

 単旗と劉狄は王軍を率いて王子・朝軍と戦ったが、敗れた。前城の人々も社(地名)で陸渾(九州の戎)を破った。

 

 この敗北を知ったことと、この動乱で至るところに連れ回された疲れが出たのか十一月、悼王が死んでしまった。在位期間はわずか二百日前後である。

 

 急死した悼王の同母弟にあたる王子・かい(または「丐」)が即位した。これを周の敬王けいおうという。

 

 敬王は周の大夫・子旅しりょの家に住んだ。

 

 十二月、晋の籍談、荀躒、賈辛かしん司馬督しばとく(司馬烏)が軍を指揮して周都周辺の各地に駐留した。


 籍談は陰(平陰。黄河南岸)に、荀躒は侯氏に、賈辛は谿泉に、司馬督は社に入る。

 

 王軍も洛陽周辺の氾、解、任人に駐軍した。

 

 閏十二月、晋が箕遺きい楽徴がくび右行詭うこうき(三人とも晋の大夫)に黄河を渡らせ、三人を前城の東南に駐軍させた。

 

 王軍は京(子朝の拠点)に侵攻、西南の城壁を破壊した。

 

 紀元前519年


 正月、王軍と晋軍が王子・朝を討伐するため、郊(周の邑)を包囲した。

 

 この侵攻を前に郊と鄩の二邑(どちらも王子・朝支配下の邑)が崩壊した。

 

 晋軍が平陰に駐軍し、王師は沢邑(狄泉)に移動した。

 

 敬王は王子朝の乱がほぼ鎮圧され、自力で安定させことができると判断して晋に使者を送った。

 

 これを受け、晋軍は兵を引いた。


 だが、これは周側にとって、甘い判断だったというべきである。周の内乱は更に続くことになる。


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