宋の元公
蔡の平公が前年、死んで太子・朱が即位したが、東国がその国君の地位を狙っていた。
東国は隠太子・友の子で、平公の弟で朱の叔父にあたる人物である。
彼は楚の費無極に賄賂を渡し、好を通じていた。彼の父を殺したのは楚である。その楚の重臣に好を通じたわけだが、彼はどんな思いで好を通じたのだろうか。
賄賂をもらった費無極は蔡人にこう伝えた。
「朱は楚の命に従わないため、王(楚の平王)は東国を国君に立てるつもりである。もしも王の希望に従わないようならば、楚は蔡を包囲するだろう」
蔡人はこれを恐れて蔡君・朱を追い出し、東国を擁立した。これを蔡の悼公という。
この理不尽な状況に朱は楚に出奔して東国を訴えた。
平王は彼に同情して東国を討伐しようとしたが、費無極がこう言って止めた。
「平公は楚と盟を結んだから(楚との協力を誓ったから)蔡に封じられました。しかしその息子には二心があったため、今回廃されました。かつて霊王が隱太子を殺したため、その息子と王の仇(敵)は共通しておりますので、必ずや王を感謝していましょう。彼を立てることに問題はありません。それに、廃立の権利を王が持てば(楚が蔡侯の廃立を自由にできれば)、蔡が二心を抱くこともなくなりましょう」
これによって、平王は、蔡への介入をやめた。
紀元前520年
二月、斉の北郭啓が莒を攻撃した。
莒君が迎撃しようとすると、大夫・苑羊牧之(氏は苑、名は牧之で羊は字)が諫めた。
「斉の将は位が低いため、要求も多くはないでしょう。下手に出るべきです。大国を怒らせてはなりません」
莒君は諫言を聞かず、寿餘で北郭啓の軍を破った。
これが斉の景公を怒らせ、大軍の攻撃を招いた。莒君は慌てて講和を求めた。最初から講和していれば斉の要求も少なかったはずであるが、交戦してからの講和になったため、巨額な財物が斉から要求されたことであろう。
斉の大夫・司馬竈が莒に入って盟を結び、莒君が斉に入って稷門の外で盟を結びました。斉の大夫が城内に入って盟を結んだにも関わらず、莒の国君が城の外で盟を結んだことは、莒君への軽視を表している。
この失敗が原因で、莒の人々は莒君を怨むようになった。
宋の南里で包囲されている華氏・向氏を迎えに来た楚の薳越が、宋の元公に伝えた。
「国君に不令(不善)の臣がいれば国君を憂いさせ、宗廟の恥辱になると申します。我が君は華氏と向氏を迎え入れて戮(処刑)すつもりである」
そのことを伝えられ、元公は鼻で笑った。楚の狙いは華氏と向氏の出奔を手伝うことが目的であると彼は見抜いたのである。
そこで彼は楚軍にこう伝えた。
「私は不才であるため、父兄(公族。華氏・向氏を指す)の歓心を得ることができず、楚君の憂いを招くことになりました。君命(楚王の言葉)を受け入れるつもりです。君臣が戦う日が続いていますが、楚君が『私は必ず臣下を助ける(謀反した臣下の亡命を受け入れる)』と申されるのであれば、その命に従いましょう。しかし『乱門に近寄ってはならない(「争乱が起きている家に近寄ってはならない。乱を起こした者を手伝ってはならない)』とも申します。もしも楚君の恩恵によって我が国が保たれ、楚君が不忠を助けて乱人を励ますようなことをしないのであれば、それは私の望と言えるもの。楚君の深慮を請います」
これは大義に則って婉曲に楚の要求を拒否する内容である。このことを伝えられた楚は困惑した。彼らとしては華氏と向氏を救うことは簡単だと考えていた。しかし、元公がこのようなことを言ってきてしまった。
現在、晋を始めとする諸侯は元公を守る立場にいるため、これから華氏と向氏を救うのであれば、諸侯と戦わねばならない。
だが、楚が晋ら諸侯を恐れている一方、晋ら諸侯も楚の動きを警戒しており、このことを知って言った。
「華氏は自分に前途がないと知れば、死力を尽くすことだろう。楚も功(華氏と向氏を救出すること)が無いことを恥じて、速戦を求めるであろう。これは我々にとって不利であると言える。彼等を出奔させて楚の功とした方がいい。出奔した華氏には何もできないはずだ。宋を救ってその害を除くことができるのだから、それ以上求めることはないではないか」
晋を始めとする諸侯は華氏と向氏を出奔させるように宋に要求した。
諸侯からそう言われてしまった以上、ここで固辞してしまっては、諸侯のいらない反感を買いかねない。結局、宋もそれに同意した。
宋の華亥、向寧、華定、華貙、華登、皇奄傷、省臧、士平が南里を出て楚に出奔した。
元公は公孫忌を大司馬に(華費遂の代わり)、辺卬(宋の平公の子・禦戎が字を子辺といい、その子孫が辺を氏にした。辺卬は禦戎の孫)を大司徒に、楽祁(子罕の孫・楽祁犂)を司城に、仲幾(字は子然。仲江の孫)を左師に(向寧の代わり)、楽大心を右師に(華亥の代わり)、楽輓(子罕の孫)を大司寇に任命し、政治を改めて国人を安定させた。




