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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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讒子

 紀元前521年


 春、周の景王けいおうが無射(大鐘の名)を鋳造した。

 

 泠(または「冷」。楽官)・州鳩(楽官の名)が言った。


「王は心疾(心臓の病)によって死ぬことだろう。楽(音楽)とは天子の職である(天子が主持するものである)。音とは楽の輿(車の荷台)である(音があるから音楽ができる)。鐘とは音の器である(鐘という楽器によって音が生まれる)。本来、天子は風(風俗・風習)を考察して楽を作り、器(楽器)によって音を集め、輿(音)によって楽を行うものである。小さい音が小さすぎず、大きい音が大きすぎないことによって、全ての事物が調和するのだ。そして音が調和することで嘉(美しい音楽)が完成する。だから和した声は耳から入って心に響き、心が安らかになって楽しめるのだ。小さい音が聞こえず、大きい音だけがいたずらに大きければ、人の心は不安になり、不安から疾(病)が生まれる。今回造った鐘は音が大きすぎるため、王の心はその音に堪えられなくなるだろう。長いはずがない」


 三月、蔡が前年死んだ平公へいこうを埋葬した。

 

 平公の太子・しゅは葬礼の際、太子が居るべき場所に立たず、身分が低い者が立つ場所に居た。

 

 葬送に参加した魯の大夫が帰国してから叔孫婼しゅくそんしゃくにこの事を話すと、叔孫婼は嘆息してこう言った。


「蔡は亡ぶだろう。もし滅ばないとしても、その君は良い終わりを迎えることができないはずだ。『詩(大雅・仮楽)』にはこうある『自分の位置で勤勉であれば、民は休むことができる』今、蔡君は即位したばかりにも関わらず、自分の居場所を棄てて下に移った。身もそれに従うはずであろう」


 

 

 

 夏、晋の頃公けいこう士鞅しおうを魯に送って聘問させた。

 

 魯の叔孫婼しゅくそんしゃくが政(政務や事務の主催者。ここでは賓客対応の責任者)を務めた。ところが季孫意如きそんいじょが叔孫氏を妨害するためんい、わざと晋を怒らせる工作をした。


 有司(官員)に命じて、斉の鮑国ほうこくが費邑を魯に返還した時に用いた礼で士鞅を接待させたのである。


 これは七牢の礼にあたる。牢は犠牲の数で、牛・羊・豚各一頭を一牢という。

 

 士鞅は激怒し、


「鮑国は位が低く、その国も小さいにも関わらず、私に鮑国の牢礼を用いるというのか。これは我が国を軽視しているからであろう。帰国して我が君に復命する」

 

 彼の怒りがあまりにも激しいため、魯人は恐れて四牢を加え、十一牢にした。

 

 士鞅はその後は機嫌を良くし、魯を聘問している間、魯の各所を巡った。その際に彼は具山と敖山について問うた。


 しかし魯人は山名を口にせず、山がある郷名を使って答えた。

 

 そのことに疑問を覚えた士鞅が、


「あれらの山は具山と敖山と呼ぶのではないのか」


 と聞くと、魯人はこう答えた。


「それは先君の献公けんこう武公ぶこうの諱です」

 

 古代において、国君の名は忌避して使わない風習があった。これを避諱という。魯の献公の名を具といい、武公の名は敖といったため、魯人は具山と敖山の名を直言しなかったのである。

 

 帰国した士鞅は知人に言った。


「人はよく学ばなければならないものだ。私は魯に行きながら二つの諱を知らず、笑い者になってしまった。これは私が学ばなかったからである。人に学識があるのは、木に枝葉があるのと同じことだ。木に枝葉があれば日影で人を守ることができる。君子に学識があればなおさら役に立つだろう」










 宋の大司馬・華費遂かひすい華貙かきょう子皮しひ)、華多僚かたりょう華登かとうを産み、華貙は少司馬になり、華多僚は元公の御士になった。しかしこの二人は大変、仲が悪く、対立していた。

 

 華多僚が宋の元公(げんこうに華貙を讒言した。


「貙が亡人(亡命した者。前年出奔した華亥かけい等、元公に反対する勢力)を国に入れようとしています」

 

 華多僚が頻繁に進言するため、元公が言った。


「司馬(華費遂)は私のために良子(息子)の亡命を招いた(華費遂の子・華登は呉に亡命した)。死も亡(亡命)も命(天命)によって決まるものだ。華貙が亡命者を招き入れたとしても、天命に従うしかない。私は再び司馬の子(華貙)を失わせたくない」

 

 華多僚はそんなことを言う彼の心意に嘘があると思いながら、


「主公が司馬を愛すのであるなら、主公自ら亡命するべきです。死から逃れることができるのなら、遠くに行くのも苦にはならないはずです」


 華費遂を愛するために華貙を除かないのであるなら、殺されることになる。そうなる前に亡命するべきだと彼は主張した。

 

 だが、元公は自分のいる位を失って亡命することを望んではいない。彼は侍人を派遣して華費遂の侍人・宜僚せんりょうを招いた。酒をふるまってから華貙を駆逐することを華費遂に告げさせた。

 

 宜僚の報告を聞いた華費遂が嘆いて言った。


「こうなったのは多僚のせいに違いない。私には讒子(讒言をする子)ができてしまった。しかしあれを殺すことはできんし、私が死ぬわけにもいかない。君命に対してどうすればいいだろうか」

 

 華費遂はやむなく元公と華貙追放について相談した。


 華貙に孟諸で狩りをするように命じ、そのまま放逐するという計画が決められた。

 

 当日、元公は華貙に酒を与え、厚く礼物を贈ってもてなした。更に従者にも礼物が下賜され、華費遂も同じように華貙を遇する。

 

 その様子を見た華貙の家臣・張匄ちょうかいは怪しみ、


「なにか理由があるはずだ」


 と言って華貙に話した。

 

 華貙は父の臣下の中で実力のある宜僚を捕まえて、剣を抜いて詰問した。恐れた宜僚は元公が華貙の追放を計画していることを全て話してしまった。


 怒った張匄が華多僚を殺そうとしたが、華貙が止めた。


「司馬(華費遂)は年老いており、登(華登)の出奔で傷ついている。私には悲しみを重ねさせることができない。出奔した方が良いだろう」


 五月、華貙は華費遂に会ってから宋を離れようとした。

 

 華貙が朝廷に行った時、ちょうど華多僚が華費遂の車を御して朝廷に入っていた。張匄はそのことを知ると怒りをこらえることができず、華貙、臼任きゅうじん鄭翩ていく(二人とも華貙の家臣)を説得し、共に華多僚を殺害した。更に華費遂を強要して謀反し、亡人を呼び戻そうとした。

 

 華氏と向氏(華亥かがい向寧しょうねい華定かてい等)が陳から宋に帰った。

 

 しかし楽大心がくたいしん豊愆ほうし華牼かけいが橫(横城。地名)で華氏と向氏に対抗したため、華氏と向氏は盧門(宋郊外の城門)を拠点とし、南里の人を率いて兵を挙げる。

 

 六月、宋は旧城や桑林の門(城門)を修築して守りを固め、斉に力を貸してもらいたいと使者を出した。


 宋で再び、大きな大乱が起きようとしていた。

 

 






 七月、日食があった。

 

 魯の昭公しょうこう梓慎ししんに聞いた。


「これはどういうことであろうか。どのような禍福が起きるのか」

 

「二至(冬至・夏至)と二分(春分・秋分)に起きる日食は災をもたらしません。日月の運行は、二分には同道(道が重なること)になり、二至には相過(互いに離れること)します。それ以外の月に日食が起きたら災禍が起きます。日食とは陽が負けることことでございますので、多くの場合は水災が発生sることになります」

 

 叔輙(または「叔痤」。子叔。伯張。叔弓の子)が日食を憂鬱になり、号哭した。

 

 それを知った叔孫婼は、


「子叔はもうすぐ死ぬだろう。必要がないのに哭したからだ」

 

 八月、叔輒は死んだ。





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