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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第十章 権力下降

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呉へ

 太子・けんが鄭によって処刑されてしまった。それは伍子胥にとっては自らの復讐を果たすための術を失ったことになる。


(どうすれば良い。どうすれば……)


『呉に行け』


 微かにその言葉が彼の頭を過ぎった。


(兄上……)


「呉に行くか」


 伍子胥はそうつぶやきながら鱄設諸の元に向かった。


「楚を通って、呉に行きましょう」


「呉に行くのはともかく、楚を通ってというのは、無理があるのではないか」


「確かにそうです。しかし、だからこそ安全だと思います」


 敢えて、危険なところに飛び込もうとは人は思わないものである。だからこそ敢えて飛び込む方が、相手の目を惑わすことができる。


「だが……」


 そこに太子・建の臣下である男が駆け込んできて言った。


「大変です。ここに鄭の者がやってきます」


「鄭め、我々も排除するつもりか」


 鱄設諸は頷くと伍子胥に言った。


「良し、汝は太子の御子息を連れて、逃げよ。ここは我らが時間を稼ぐ」


 太子・建にはしょうという幼い子がいる。


「それは」


「汝は仇を取りたいのだろう。ならば、汝は呉へ行け」


「わかりました。では、呉で会いましょう」


 伍子胥は頷き、勝を連れて脱出した。彼らが見えなくなると、鱄設諸はわざと鄭の者たちに姿が見えるように動き、彼らを誘導して、時間を稼いでから、家族や仲間たちと共に逃走を図った。









 

 伍子胥は勝を連れ、呉に向かうため、楚に戻った。


(また、こうして戻るとはな)


 しかし、必ずや滅ぼすと彼は再び決意を新たにしたが、厄介な状況に陥った。


 昭関(楚の関)まで来ると男と幼子の二人であったことから関吏が二人を警戒し、検問しようとした時に伍子胥に気づき、彼を捕えようとしたのである。


「貴様は王都より、指名手配されている」


「理由はなんでしょうか」


(ここで捕まるわけにはいかない)


 伍子胥は、


「王が私を探しているのは、美珠(玉)が欲するがためです。私が出奔致しましたのは、玉を無くしてしまったがため、それを探しに行くところなのです」


 と言ったすると関吏は、


「そうか」


 と納得してしまった。これは関吏の質の悪さというよりは、恐らく伍子胥を捕まえるよう伝えられても理由については説明されていなかったというのがある。


 こうして伍子胥と勝を釈放した。

 

 しかし二人が去ってから、思い直したのか関吏が追いかけて来た。


(そう簡単にはいかないか)


 伍子胥は勝は追っ手から逃れようとしたが、長江に面してしまい進退に窮した。その時、江上に船があるのを見つけた。漁父が下流から上流に向かっていたのである。

 

 伍子胥は漁父に向かって、叫んだ。


「漁父よ、我々を渡らせてくれ」

 

 彼が再三叫ぶのを聞いて、漁父は伍子胥らを船に乗せようとしたが、彼らの近くに追っ手がいるのが見えた。


 そこで漁父が歌を歌った。

 

「空がまだ明るいために国境を越えようとする者を乗せるわけにはいかない。芦が生えた岸で会わん」


 という内容の歌である。

 

 伍子胥は歌の意味を悟るとすぐに芦が茂る岸に潜んだ。暫くしてから漁父がまた歌った。

 

「日が既に傾き、私の心は憂いを悲しんでいる。月が登ったにも関わらず、なぜ渡らないのか。事は急ぐがどうすればいい」


 という内容で、


「早く船に乗りなさい」


 と誘っている。

 

 伍子胥は勝を連れ、船に乗り、漁父の助けを得て千浔の津(渡し場)に着いた。

 

 長江を渡った伍子胥らに飢色が見えたため、漁父が言った。


「この木の下で待ちなさい。あなた方のために食糧を持ってこよう」

 

 漁父が去ると伍子胥は、


(楚の役人はまだ近くにいるかもしれない。私たちを売る可能性もあるか……)


 そう疑って深い葦の中に隠れた。

 

 暫くして麦飯や鮑魚羹、盎漿(酒)を持った漁父が戻ってきたが、伍子胥がいないために歌を歌った。


「芦の中の人よ。窮乏した士ではないのかね」

 

 再三歌ってからやっと伍子胥は現れた。

 

「あなた方にに飢色が見えたために食糧を持ってきたのだ。あなたはなぜ嫌う(疑う)のか?」

 

「性命は天に属すものではございますが、今は丈人(老人)に属しております。嫌うことなどございません」

 

(人を信じるということは難しいものだ)

 

 二人が飲食を終わらせ、伍子胥が去ろうとした時、腰につけていた百金の剣を解いて漁父に与えようとした。


「これは私の前君の剣で、中に七星があり、百金に値しております。お礼に差し上げましょう7」

 

 しかし漁父はこう断った。


「楚の法令では、伍子胥を得た者には粟五万石と執圭の爵位を与えると聞いている。それにも関わらず、百金の剣を欲しいとは思わないさ」

 

 漁父は更に続けた。


「あなたはすぐ去るべきだ。ゆっくりしていては楚に捕えられてしまうだろう」

 

 伍子胥は、


「丈人の姓と字をお教えください」


 と言うと、漁父はこう答えた。


「今日は凶凶(凶悪。大凶)の日である。二人の賊が出会ってしまった。私は楚の賊を逃がした賊。二人の賊が理解するのに言葉はいらないではないか。姓や字が何の役に立つというのだ。あなたは芦の中の人、私は漁の丈人でいいではないか。富貴を得ても忘れるな」

 

 伍子胥は、


「はい(諾)」


 と応えてから、漁父に言った。


「あなたの盎漿も隠してください。見つかってはなりません」


 これは漁父が自分を助けたことを楚兵に知られたら危険であるため、証拠を隠した方が良いと心配しての言葉である。

 

 漁父も、


「わかった(諾)」


 と笑いながら答えた。

 

 こうして伍子胥は彼と別れたが、数歩進んでから後ろを振り向いた。すると漁父が自分の船を転覆させて長江に沈めているのが見えた。


(人を信じるのは、本当に難しいものだ)

 

 伍子胥は何も言わず、呉に向かった。









 遂に呉に入った伍子胥は同じように逃れてきた鱄設諸らと再会した。


「良くぞ無事であった」


 と互いに相手の無事を称えあった。


 伍子胥が呉にいることを呉が知るところとなり、呉は彼を招いた。


(ここで何としても呉の協力を得ねばならない)


 伍子胥は復讐を果たすためにも呉王・りょうに楚討伐の利を必死に説いた。やがて呉王・僚が彼の言葉に動かされようとした時、声が上がった。


「彼は宗族(家族)が殺されております。その仇を討つために言っているのです。聞く必要はございません」


 この声を上げたのは、公子・こうである。


 これによって、伍子胥の意見は取り上げられなかった。だが、伍子胥は公子・光の目を見て、


(公子には異志があるようだ)


 自分の意見が危険だと思ったというよりは、どうにも自分の意見を認めながら敢えて反対したように彼には思えた。


(待ってみるか)


 彼は自分の直感を信じて、これ以上食い下がらずに呉王・僚の元を離れた。


 一刻後、彼の元に公子・光自らやって来た。


「此度の汝の言を妨げたことを謝罪する」


「いえ、国のことを考えれば、難しいことであり、私の感情が入っていることは確かです」


「そう言ってもらうとありがたい。だが、何としてもあの意見は受け入れるわけにはいかなかった」


 公子・光はにやりと笑った。


「何故ならもしあいつが楚討伐など成し遂げてしまえば、やつの名声は不動のものになってしまう」


「王位を望んでおりますか」


「ああそうだ」


 二人の間に少しの静粛が生まれる。


(この方の志は本物であろう)


 その志に協力することは自分の志を果たすことへの近道になるのではないのか。


「私はあなた様が王位に着くことに協力致しましょう」


「そうか、そうか汝にそう言ってもらえるか」


 公子・光は彼の手を取り喜んだ。


「汝の元を訪れたのは汝を臣下として向か入れるつもりだったのだ」


「いえ、それはやめた方がよろしいかと思います」


「何故だ」


「公子は私の意見を退けた立場です。それにも関わらず、私がここで仕えては疑問に思われる方も多いことでしょう」


「なるほどな」


 それは目立つ行為と言える。何より、呉王・僚がそれを知った時、どう思うかというのがある。


(あやつのことなど、どうでも良いがな)


「そうか仕方ないな」


「その代わりとは言いませんが、鱄設諸という人物を推挙します。彼は豪胆で勇気もある人物だと思います」


 彼としては共に苦難を味わっただけに彼の待遇を良くしたいと考えた部分もある。


「そうかわかった。その者を登用しよう。だが、いずれは力になってもらうぞ」


「仰せのままに」


 こうして伍子胥自身は辺境で農耕を始めた。


(楚を滅ぼす。その時が本当に来るかどうかはわからない。されど私は諦めるわけにはいかないのだ)


 彼にとって雌伏の時が始まった。





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