大火災
紀元前524年
二月、周の毛得が毛伯過を殺してその地位を奪うという事件が起きた。
周の萇弘は、
「毛得は必ず亡命することになるだろう。この日は昆吾(夏王朝時代の国名。またはその国君の名。商王朝の開祖・湯王によって夏王朝と同じ日に滅ぼされたと言われている)の悪が満ちた日(滅ぼされた日)であり、それは驕横によってもたらされたものである。毛得も王都で驕横によって成就した。亡命しないはずがない」
と予見した。
五月、黄昏に火(大火星)が現れ、風が吹き始めた。
魯の梓慎が言った。
「これは融風(東北風)というものであり、火(火災)の始まりである。七日後(正確に言うと足掛け七日)に火災が起きる」
東は五行の木に当たり、火は木から生まれるため、東北風が火災の始まりとされている。
日を追うことに風がますます強くなり、宋、衛、陳、鄭で火災が起きた。
梓慎が大庭氏の庫(大庭氏は古い国名で、魯都内に跡があった。魯がそこに府庫を立てたため、大庭氏の庫と呼ばれている)に登って眺め、
「火災が起きたのは宋、衛、陳、鄭だ」
と言った。
数日後、四国から火災の報告が入ったという。
鄭の裨竈が、
「私の言を用いなかったために、鄭でも火災が起きたのだ」
そこで鄭人が子産に裨竈の言う通りにするよう勧めたが、子産はやはり同意しなかった。
子太叔は何故、勧めに従わないのかと思い、
「宝とは民を守るためにあります。火災によって国が亡ぶかもしれないのです。それを救う術に使おうとしているというのに、なぜ宝を惜しむのですか」
子産は、
「天道は遠く、人道は近い(天道は天象、人道は火災等の人為による災害のこと)。だから両者が相関することはないのだ。どうして天象から人道を知ることができるというのか。竈は本当に天道を知っていると言えるか。彼は言が多いため、時にはあたることがあっても当然であろうよ」
結局、子産は祭祀に用いる玉器を裨竈に与えなかった。
鄭で火災が起きる前に、大夫・里析が子産に言った。
「間もなく大祥(大きな変異)が起きて、民は震撼し、国は滅亡に瀕すことになります。その時、私の身は既に尽きていましょう(死んでいる)。国を遷すことはできませんか」
子産は、
「できないことではないものの、それは私一人の一存では決められない」
火災が起きた時、里析は既に死んでいたが、埋葬前であった。子産は三十人を送って里析の柩を遷させた。
子産としては、火災が起きるかもしれないとしても人為的なものであるというのであれば、警戒を行い、火災が起きないようにすべきであると考えており、起きた時には、直ぐ様、対処できるように尽力すべきであると考えている。
もし、火災が天の意思によるものであるならば、それを止めることは人にはできないはずなのだ。
それならば、祈祷のような具体的な火災の対策とはなりえないものに手間をかける必要はないはずである。
一方の里析も火災を恐れるとはいえ、国都の遷都するとなると流石に度が過ぎていることから子産は彼の進言を断った。
しかし、彼の国と民を想う気持ちに関しては、死んでもなお本物であると子産は考え、彼に一定の敬意を込めたのであろう。
火災が起きると、子産は東門で晋から来た公子や公孫に会い、急いで帰国させた。東門は鄭の各城門の中で最も栄えていた場所である。
同時に、新客(鄭に来たばかりの賓客)に対しても、司寇を使って城外に避難させた。
旧客(以前から鄭にいる客)は家から出ることを禁止した。
長期滞在する賓客が住む場所は、火災の備えがあり安全であるということと、無闇に外出して逆に災害に巻き込まれることを恐れたためである。
大夫の子寬(子太叔の子・游速)と子上(誰の子とかは不明)に各所の屏攝(祭祀を行う場所)を確認させた。
二人は都内の屏攝を全て確認して大宮(太廟)に至った。
開卜大夫・公孫登に卜に使う大亀を移動させ、祝史に主祏(宗廟の神主が入った石の箱)を周廟(西周厲王廟)まで運ばせ、先君に火災の報告をした。
府人も庫人もそれぞれ自分が管轄する場所で火に備えさすように子産は指示を出し、更に大夫・商成公に命じて司宮(宦官)を監督させ、旧宮人(先公の宮女)を安全な場所に避難させた。
子産は次に司馬、司寇に指示を出して彼らを火道に並ばせ、消火活動とこの事態に乗じる盗難を防がせた。
城下の人々は列を成して城壁に登る。
翌日、火災を知った城外の野司寇(県士)が徴集した徒役を率いて駆けつけ、郊人(郊内の郷の長官)が祝史を助けて国北の地を清め、祭壇を築いて玄冥(水神)と回禄(火神)に鎮火を祈った。
また、四鄘(四城)でも祈祷が行われました。城壁は土が重ねられており、陰気が溜まっているため、火を祓うことができると考えられていた。
更に火災で崩れた家屋を記録し、被災者の賦税を減らして新しい家を建てる費用に充てさせた。
三日間哭礼を行うと共に市を封鎖し、火が収まると行人(外交官)を各地に送って諸侯に火災の報告を行った。
宋と衛も同じような対応を行ったが、陳は火災に対して行動を取らず、許は被災者の慰問・救済をしなかった。
この事から、君子(知識人)たちは義を失ったと二カ国を批難し、陳と許は国々の中でも早く滅ぶと判断した。
六月、鄅君(鄅は妘姓の国)が城外の農地を巡視した。その間に邾人が鄅城を襲った。
鄅人が城門を閉じようとしたが、邾人・羊羅が城門を守る鄅人の首を取ったため、鄅城は占拠され、城民が全て捕虜になった。
鄅の国君は
「私には帰るところがない」
と言うと、捕まった妻子に会うために邾に行った。
邾の荘公は鄅君の夫人を返し、娘を留めた。
魯から葬礼に参加した者が周の原伯・魯(大夫)に会って話をし、原伯・魯が学問を好まないことを知った。
帰ってからそれを閔子馬に話すと、閔子馬はこう言った。
「周は乱れるだろう。周では多くの人が原伯のように学問を好まないと言っているはずだ。だから大人(政治を行う者)に影響を及ぼしているんおだ」
人々が学問を好まないようになっているために、原伯のような大夫も学問を好まなくなっている。
「大人は位を失うことを恐れるべきであるにも関わらず、大切な道理を理解できず、『無学でも問題ない。無学は害にならない』と言っている。目先に害がないから学問に励もうとせず、その時その時を過ごすことができればそれで満足しているのだ。だから下が上を凌駕しようとしているのである。これで乱れないはずがない。学問とは殖(植物を育てること)と同じだ。学ばなければ、枝葉が落ちるように堕落するしかない。原氏は亡ぶだろう」
これは周だけではなく、多くの諸国でも起こり始めているものである。




