火災の予言
遅れました。
当時、轘轅(地名)より東に位置し、河南・山北に住む戎族は陰戎と号しており、広い範囲で栄えていた。
晋と楚が領土を拡大して諸戎を威服させるようになると、陰戎は陸渾・伊洛の戎と共に晋に仕え、南方の蛮氏(蛮族)は楚に服従していた。
しかしこの頃、晋の威信の低下もあり、陸渾の戎が晋に逆らうようになった。
秋、晋の頃公が屠蒯(晋の膳宰)を周に送り、雒水と三塗山の祭祀を行う許可を求めた。
周の萇弘が劉の献公に言った。
「客(屠蒯)の容貌は猛(勇ましい)ですので、本当の目的は祭祀ではないでしょう。戎を討つつもりではないでしょうか。最近、陸渾氏(戎)が楚と親睦しておりますので、それが原因と思われます。備えをするべきです」
献公は晋と戎の戦を警戒し、備えを強化した。
萇弘の言う通り、晋は陸渾への出兵の準備を行っていた。後は、兵を率いる将軍を決めるだけであった。
そんな時、韓起がある夢を見た。
晋の文公が荀呉の手を牽き、陸渾を荀呉に与えるという内容の夢であった。夢から醒めた韓起は天佑と思い、荀呉に軍を指揮させることにした。
九月、荀呉は軍を率いて棘津から黄河を渡り、そこで先ず、祭史を雒水に派遣し、犠牲を使って祭りの儀式を行わせた。その隙に、軍を陸渾の戎に気づかれる前に、前進させた。
陸渾の戎が油断をしている隙に晋軍はこれを急襲、楚と関係を深くした罪を譴責を行い、陸渾の戎は滅亡させた。
「陸渾の長はどこだ」
「どうやら逃げられたようです」
「くそ」
荀呉は兜を叩きつけた。
陸渾の国君は命からがら楚に奔った。この後、楚は諸戎と蛮族の双方に大きな影響力を持つようになる。
他の陸渾の衆は甘鹿に逃走を図ったが、警戒を強めていた周軍に多くが捕えられてしまった。
晋軍が捕虜と共に帰国すると韓起は捕虜を文宮(文公廟)に奉献した。
冬、星孛(彗星)が大辰(大火星。心宿)に現れ、西の漢河(銀河)に至った。
魯の大夫・申須が言った。
「彗とは旧を除いて新をもたらすものです」
彗星は箒星とも呼ばれている。箒は掃除に使われる道具であるから、旧から新に代わる象徴とされたのである。
「天事はしばしば吉凶を表すものです。今回、火が除かれましたが、新しい火が必ず現れるでしょう。諸侯に火災が起きるのではないでしょうか」
梓慎が言った。
「昨年、私も彗星を見た。その時は火(大火星)が現れてから星孛が姿を見せていた。今年は火が現れてから星孛がますますはっきりしており、また、火が入ったら(大火星が沈んで見えなくなったら)、星孛も隠れた。星孛が火の傍にいて久しく、その動きが連動しているのは間違いはない。通常、火(大火星)が現れるのは夏暦の三月、商暦の四月、周暦の五月であり、夏暦は天数と対応している」
火災が起きるのは大火星が現れる夏暦三月、周暦では五月であるから、来年五月に火災が起きるということになる。
「火(火災)が起きるとしたら宋・衛・陳・鄭の四国が該当するだろう。宋は大辰の虚だ」
星宿を分割して各国にあてはめた時、大火星は宋にあたる。
「陳は大皞の虚だ」
大皞は陳の地に住んでいたと言われている。
「鄭は祝融の虚である」
祝融は鄭の地に住んでいたと言われている。
「これらは全て火房(火舎。火がいるところ)にあたる。また、星孛が漢河に至っている。漢は水の祥であり、衛は顓頊の虚であるため帝丘といい、その星は大水にあたる。水は火の牡である」
火と水は相配しており、火は牝、水は牡とされていた。火が水を恐れるためである。
「火災が起きるのは丙子か壬午の日だ。その日は水火が重なるためだ」
十干十二支は火と水に分けられていた。丙は火日、子は水位、壬は水日、午は火位に当たり、丙子と壬午は火と水が重なる。火と水が重なれば、水が勝利するように思えるが、今回、彗星が大火から出ており、漢河に至る時には小さくなっていたため、火が多く水が少ないことになる。
「もしも火(大火星)が見えなくなって星孛も隠れれば、火災は壬午の日に起きるだろう」
大火星が隠れれば、水が強くなる。丙子は「火・水」で壬午は「水・火」であるため、水が先にある壬午に火災が起きるということになる。
「火(大火星)が見える月(周暦五月)を越えることはない」
鄭の裨竈もこれを予見しており、子産に言った。
「宋、衛、陳、鄭で同じ日に火災が起きます。しかし私が瓘斝玉瓚(玉器)で祭祀を行えば、鄭は火災から逃れることができましょう」
しかし、子産は玉器を与えなかった。
呉が楚に侵攻を行った。
楚の陽匄(子瑕)
彼は楚の穆王の曾孫で、穆王の子に王子・揚がおり、揚の子が尹といい、その尹の子が陽匄である。
彼が令尹になり、戦を卜うと「不吉」と出た。
司馬・子魚(公子・魴)が言った。
「我々は上流にいるのに、なぜ不吉と出るのでしょう。そもそも楚の慣例では司馬が令亀(命亀。卜の内容を告げること)を行うものです。私に改めて卜わせてください」
子魚は、
「私が属(部下)を率いて死に、楚軍がそれに続いて大勝を得る」
と言って卜った。その結果、「吉」と出た。
楚と呉は長岸でぶつかった。船を使った水戦であり、水の上での戦に慣れている呉がその有利さを持って、楚を圧倒するものの、子魚が決死の反撃を行い、彼は戦死したものの、他の楚軍が後に続いて猛攻を加えたことで、呉軍は敗退した。
楚軍は勝利と共に呉王の舟・餘皇を奪った。
楚軍は隨人と後から来た士卒に奪った舟を守らせ、舟を陸に揚げ、周りに深い壕を作って呉軍の襲撃に備えた。
壕が深くて地下水に達したため、壕から出入りする通路を炭で埋めて水を塞ぎ、陣を構えた。
呉の全体の指揮を取っていた呉の公子・光はこの結果を憎々しく思っていた。
(戦に負け、先王の船まで奪われてしまった。何と不甲斐ないことか。この程度か私は)
拳を握りつぶし、思う。
「だが、どうする。もはや逆転などは……否、その程度でどうするのか」
(私は王になる男ぞ)
それなのに船の一つ、奪えず王位を奪えるものか。
彼は気合を入れ直し、兵達に向かって言った。
「先王の舟を失ったのは私だけの罪ではない。皆の罪でもある。皆で力を合わせ、船を取り返し、死から逃れようではないか」
この言葉に兵達は同意した。
そこで長鬣者(背が高く強壮な者)三人を選び、
「私が『餘皇』と叫んだらそれに応えよ。夜の闇の中、我が軍はそれを目標にして進む」
と命じて舟の傍に潜伏させた。
夜、公子・光が「餘皇!」と三回叫ぶと、三人が代わる代わる声を挙げて応えた。
突然、湧いた声に楚兵たちは声の出処に向かい、三人を見つけて殺したが、そこに突然、呉軍の急襲を受けたことにより、楚軍は混乱に陥って大敗してしまった。
一方の呉軍は餘皇を取り返して引き上げた。




