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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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辺境の学問

 夏、魯の昭公しょうこうがやっと晋から帰国した。

 

 昭公に従っていた子服回しふくかい子服昭(しふくしょう孟椒もうしょう)の子)が季孫意如きそんいじょに言った。


「晋の公室は衰えましょう。国君は幼弱で、六卿は強く奢傲(奢侈)です。やがてこれがくせとなり、くせは常態になりますと公室が衰えることになりましょう」

 

 季孫意如は、鼻で笑うと、


「汝はまだ幼い。国の事が分かるはずがない」


 と言った。

 

 八月、晋の昭公しょうこうが死に、子の去疾きょしつが継いだ。これを晋の頃公けいこうという。

 

 九月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行った。旱があったためである。

 

 鄭も大旱に襲われており、屠撃とげき祝款しゅくかん豎柎(じゅふ(三人とも鄭の大夫)が桑山の樹木を伐って祭祀を行った。しかしやはり雨は降ることはなかった。

 

 子産しさんは、


「山に対して祭祀を行う際には、山林を守らなければならないものだ。それにも関わらず、樹木を伐ったのだから、罪が大きくなって当然であろう」

 

 と言ったため、鄭は三人の官位と封邑を剥奪した。

 

 季孫意如が晋に入り、十月、昭公の埋葬式に出席した。

 

 晋の様子眺めた季孫意如は、


「子服回の言った通りだ。子服氏は良き御子息を持たれた」


 紀元前525年


 春、小邾の穆公ぼくこうが魯に入朝した。昭公が宴を開いてもてなす。

 

 季孫意如が『采叔(采菽。詩経・小雅)』を賦した。


「君子が来朝された。どのような福があるのだろう」という句がある。

 

 穆公は『菁菁者莪(小雅)』を賦した。


「既に君子に会うことができた。楽しくもあり、儀礼も備わっています」という句がある。

 

 叔孫婼しゅくそんしゃくが言った。


「国を治める賢才がいなければ、久しく保つことはできないものだ」


 小邾は穆公という賢才が国を治めているため、久しく保つことができるだろうと彼は思った。

 

 季孫意如が賦した詩は、穆公の入朝によって利益を求めていることを表す。しかし穆公は君子に会えたことが既に福であると答えた。


 叔孫婼はこの答えを称賛し、穆公のような国君が国を治めれば小邾は長く保つことができると評価したのである。

 

 正陽の月(夏暦四月、周暦六月)に日食があったら社の祭祀を行う慣わしがあったため、魯の祝史(祭祀を管理する官)が祭祀で用いる品目を問うた。

 

 叔孫婼は、


「日食が起きれば、天子は豊盛な食事をせず、社で鼓を打ちます。諸侯は幣(祭品)を社に納めて朝廷で鼓を叩きます。これが礼です」


 と言ったが季孫意如がこれに反対した。


「陰気がまだ生まれていない正月朔に日食が起きれば(陰気の月が陽気の太陽を侵せば)、鼓を打って幣を納めるのが礼です。しかしそれ以外の日食で鼓を打つ必要は必要はないでしょう」

 

 彼の言った「正月朔」というのは「正陽の月の朔日」という意味であるが、季孫意如はこの「正月(正陽の月)」が周暦六月を指すことを知らないようである。そのため、太史の発言を招いた。

 

 大史(太史)が言った。


「正月とはまさにこの月のことです。日(太陽)が分(春分)を過ぎて至(夏至)に至らない間に、三辰(日・月・星)に災があれば(日食、月食等、互いに侵しあえば)、百官は素服(白服。喪服)を着なければならず、国君は豊かな食事をとらずに正寝から離れて災(日食等)の時を過ごすものです。そしてその時、楽(楽工)が鼓を奏で、祝(祝史)が幣を用い、史(太史)が辞を述べて祀るのです。だから『夏書(佚書。似ている文は『尚書・胤征』にある)』にはこうあります『日月が通常の場所にいない時は(日食の時は)、瞽(盲目の楽工)が鼓を奏で、異変に備えるために嗇夫(郷邑の官)が車を走らせ、庶人(平民)が駆けまわる』これはまさにこの月の朔日のことを申しているのです。四月(夏暦四月。周暦六月)は『孟夏』ともよばれています」

 

 季孫意如はこの意見に従わなかった。

 

 退出した叔孫婼は、


「彼には異志(異心)がある。国君を国君と思っていない」


 と批難した。

 

 日食は陰が陽を侵しているため、臣下が主君を侵すことの象徴とされていた。日食に正しく対応すれば、臣下が主君に正しく仕えていることになるのだが、季孫意如は日食が起きた時の慣例を無視したため、異志があるとみなされたのである。

 

 尚、楊伯峻ようはくしゅんの『春秋左伝注』によると、この年の周暦六月朔に日食が起きたというのは誤りで、本年九月朔に日食があったとしている。


 但しその場合は「甲戌朔」ではなく「癸酉朔」になるため、もしくは、他の年の日食の記述が誤ってここに書かれているという説もある。

 

 秋、郯君が魯に来朝した。昭公が宴を開いてもてなした。

 

 叔孫婼が郯君に問うた。


「少皞氏は鳥を官名に使っているようですが、それはなぜですか?」

 

「我が国の祖の事であるため、よく知っています。昔、黄帝氏は雲によって紀(命名・記録)しましたので、雲を師(諸官の長)の名につけました」


 黄帝氏の官名。春官は青雲、夏官は縉雲、秋官は白雲、冬官は黒雲、中官は黄雲。


「同じように、炎帝氏は火で紀したので、火を官名に使っています」


 炎帝氏の官名。春官は大火、夏官は鶉火、秋官は西火、冬官は北火、中官は中火。


「共工氏は水で紀しましたので水を官名に使いました」


 共工氏の官名。春官は東水、夏官は南水、秋官は西水、冬官は北水、中官は中水。


「大皞氏は龍で紀しましたので龍を官名に使いました」


 大皞氏の官名。春官は青龍氏、夏官は赤龍氏、秋官は白龍氏、冬官は黒龍氏、中官は黄龍氏。


「我が高祖である少皞・摯が即位された際、鳳鳥が現れました。よって鳥で紀し、鳥を官名に用いたのです。鳳鳥氏は暦を正し、玄鳥氏は分(春分・秋分)を管理し、伯趙氏(伯趙は「伯労」ともいう鳥の名)は至(夏至・冬至)を管理し、青鳥氏は啓(立春・立夏)を管理し、丹鳥氏は閉(立秋・立冬)を管理しました。また、祝鳩氏は司徒、鴡鳩氏は司馬、鳲鳩氏は司空、爽鳩氏は司寇、鶻鳩氏は司事(農事の官)であり、この五鳩は鳩民の官(民をまとめる官)にあたりました。五雉(鷷雉・鶅雉・翟雉・鵗雉・翬雉)は五工正(各種の手工業を管理する官)で、器物用具を改善し、度量を正し、民が必要とする物を均等に行き渡らせました。九扈(春扈・夏扈・秋扈・冬扈・棘扈・行扈・宵扈・桑扈・老扈)は九農正(農業に関わる諸事を管理する官)で、民の淫放を規制しました」


 このように瑞祥の現れであるものを官名に使っていた。


「顓頊の時代になってからは、瑞祥が遠くから来ることがなくなりましたので(龍、雲、鳥等の瑞祥が現れなくなりましたので)、近くの物を使って紀し、民事に近い物を選んで民を治める師(官)の名に用いるようになったのです」


 この出来事を孔子(こうしこと孔丘(こうきゅうが聞いた。当時、二十七歳前後である。

 

 彼は直接、郯君に会いに行って古代の官制を学んだ。学問における彼の行動力は中々のものがある。

 

 後日、孔丘は左丘明さきゅうめいの元に訪れ、郯君から学んだことを伝え、最後にこう語った。


「『天子は官を失い、その学問は四夷(辺境)にある』と言われているが、まったくその通りであるなあ」


 周や魯は衰えて官制に関する典籍と学問を失っていることを彼は嘆いた。


「だが、その学問を私は学ぶことができた。何と幸運なことだろうか……」


「そうですね。本来であれば、辺境に行かねばならなければ学ぶことができませんでしたからね」


 左丘明の言葉に孔丘は頷く。


「その通りだ」


 孔丘は笑った。彼は本当に楽しそうに学問をする人である。少なくとも左丘明が知る限り、これ以上に楽しそうに行う人は見たことはない。


(それにこの人は教えるのが上手い)


 孔丘は人を教えるのがとても上手い。回りくどい言葉を好まず、わかりやすい言葉で伝えることができる。孔丘は儒教の始祖であるが、思想家である前に偉大な教育者でもある。


 そのことを最初に感じることができたのは、左丘明であった。

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