周の景王
冬、魯の昭公が晋に入朝した。二年前の平丘の会で捕まった季孫意如が釈放されたことへの拝謝のためである。
しかしながらあまり良い感情を持たれてはいないようで、帰国することを許されず、昭公は翌年の夏まで晋にいることになる。
十二月、晋の荀躒が周に入った。穆后の葬送のためである。籍談が介(副使)を務める。
埋葬が終わり喪服を脱ぐと、周の景王が荀躒を招いて宴を開いた。そこで魯から献上された壺が樽(尊。酒器)に使われた。
景王はこれを見ながら、
「伯氏よ、諸侯は皆、王室を鎮撫しているようだが(貢物を献上しているが)、なぜ晋だけはしてくれないのか?」
荀躒は籍談の方を向いて揖(片方の手で片方の拳を包んで頭を下げる礼)をした。籍談に回答を促すための行為である。
籍談が景王に答えた。
「諸侯が封じられた時、皆、王室から明器(徳を明らかにするための器。宝器)を与えられ、自国の社稷を安定させました。故に諸侯は彝器(礼器)を王に献上できるのです。しかし晋は深山におり、戎狄と隣接しております。王室から遥か遠くに離れているために王霊(王の福)は及ばず、戎を服従させることに精一杯なのです。どこに彝器を献上する余裕があると言えましょう」
「叔氏(籍談を指す。荀躒は伯氏。叔氏と伯氏は叔父、伯父という意味で、どちらも周王の親戚で姫姓だとわかる。また、伯父は叔父より年長になる)は忘れてはいないか。叔父(ここでは同姓の先祖の意味)の唐叔(晋の祖)は成王の同母弟であったのに、賞賜がなかったと言うのか。密須(密)の鼓と大路(車)は文王が大蒐(狩猟。閲兵)に用いた物であり、闕鞏の甲(闕鞏が作った甲冑)は武王が商を滅ぼした時に使った物であるが、唐叔はそれを受け取り、戎狄が居住する参虚(晋の地)の地に置いた。その後、襄王が下賜した二路(大路と戎路。車)、鏚鉞(斧越)、秬鬯(黍の酒)、彤弓(赤い弓)、虎賁(勇士)を文公が受け取り、南陽の田(地)を所有し、東夏(東方諸国)を安定させた。これらが賞賜でないとすれば何だと言うのか。勲功があれば廃すことなく、功績があれば記録し、土田を奉じ(贈り)、彝器によって慰撫し、車服によって表彰し、文章によって明らかにし、子孫が忘れることがないから、福となるのである。このような福祚(福)を記録せず、叔父(唐叔)はどこにいると言うのか(王から与えられたこれらの福がなければ晋は存在しない)。そもそも、かつて汝の高祖(遠祖)にあたる孫伯黶は晋の典籍を主管して大政を行い、籍氏を名乗るようになったのだ。その後、辛有の次子・董が晋に来て、董史(代々続く史官の家系の董氏)が生まれた。汝は司典(典籍の主管。孫伯黶)の後裔であるにも関わらず、なぜそのことを忘れたのか」
籍談はこれに反論することができなかった。
やがて荀躒、籍談等が退席してから、景王は言った。
「籍父の後世は滅ぶであろうな。典故を挙げながら自分の祖を忘れている」
一方、帰国した籍談がこの事を叔向に言うと、叔向は、
「王は善い終わりを迎えることができないだろう。『楽しんだ事によって、それにふさわしい終わりを迎えん』というが、此度、王は憂を楽しまれた。だから憂によって死ぬはずであろう。これは善い終わりではない。王はこの一年で二回も三年の喪があったからだ(太子と王后の死を指す)。それにも関わらず、喪賓(葬送に参加した賓客)と宴を開き、しかも彝器を要求した。これは憂を楽しむこと甚だしく、礼からも外れている行為だ。彝器は功を嘉するから得られるのであって、喪事によって得るものではない。三年の喪は、たとえ尊貴な天子でも服すのが礼でありながら王は喪に服さず、早くも宴を楽しまれた。これも礼から外れている。礼とは王の大経(規則)である。それにも関わらず一つの行動で二つの礼を失ったのだから(喪中なのに彝器を求めたことと宴を開いたこと)、大経が失われたといわなければならないだろう。言とは典籍を考察するためにあり、典籍とは経(礼)を記録するためにある。経を忘れて言だけが多いようでは、典籍を挙げても役に立たない」
と景王の行為を批難した。
紀元前526年
二月、斉の景公は徐を攻撃した。
斉軍は蒲隧まで進み、駐軍した。徐は講和を望み、徐君と郯君、莒君が景公と会見し、蒲隧で盟を結んだ。甲父(古国名)の鼎が斉に贈られた。
魯の叔孫婼は、
「諸侯に伯(覇者)がいないために、このように小国の害となっている。無道な斉君が軍を興して遠方を討伐し、会盟で和を成立させて帰還したが、誰も止める者がいないではないか。これは伯がいないからだ。『詩(小雅・雨無正)』には『宗周が既に滅び、安定することがなく。政治を行う大夫は離散し、民の労苦を知る者はなし』とあるが、まさに今の状況を歌っているのだろうな」
蛮氏(戎蛮族)が叛したという情報が楚に入った。
楚の平王は然丹を派遣すると戎蛮子・嘉を誘い出し、殺した。
そのまま楚は蛮氏の領地を占領しようとしたのだが、相当の反発にあい、再び戎蛮子・嘉の子を国君に立てて去った。




