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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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才気ある者の危うさ

 晋の荀呉じゅんごが鮮虞へ侵攻し、鼓を包囲した。鼓は白狄の別種であり、姫姓の国であるものの、鮮虞に属していた。


 大軍を持って襲いかかった晋軍に対し、恐れた一部の鼓人は城を挙げて謀反することを荀呉に申し出た。これは晋軍にとって朗報と言うべきことであろう。兵を損ねることなく、欲しい物が手に入るのである。


 しかし、荀呉はこの申し出を拒否した。

 

 左右の近臣は驚き、動揺し、彼に進言した。


「軍を労することなく城を得ることができるにも関わらず、なぜ同意しないのでしょうか?」

 

 荀呉は腕を組み答えた。


「かつて叔向しゅくきょう殿がこう申されていた。『善悪が適切であれば、民は己の帰するべき場所を知り、事業を成功させることができる』と、もしも我々の城で誰かが裏切れば、その者は我々が共通して憎む対象になるだろう。それなのに他者が城を挙げて裏切ることを、なぜ喜べるというのか。悪を賞せば、好(善)はどうなるのか。また、もし悪を受け入れながらその功を賞しなければ、信を失うことになる。これでは民を守ることができないではないか。力があれば進み、無ければ退く。己の力を見極めて動くだけのことである。城を欲して姦悪に近づけば、失うものの方が多くなるだろう」

 

 荀呉は情報を鼓人に伝えて自分たりに通じようとした裏切り者を殺させ、守りを整えさせた。

 

 それから鼓の包囲は三カ月にわたった。一部の鼓人は再び、投降を願い出た。しかし荀呉は鼓人に会うものの、こう言って追い返した。


「まだ食色(顔色のこと)があるように思える。城を修築して守りを続けよ」

 

 左右の臣下たちは再び進言した。


「城を取れるにも関わらず取らず、民を労して武器を損なっておられていては、公はどのように主公に仕えることができましょうか」

 

 荀呉が答えた。


「私はそうやって主公に仕えているのだ。一邑を取っても民に怠(怠惰)を教えれば、何の意味もないではないか。怠によって邑を買うくらいならば、旧(元の様子。ここでは勤勉の意味)を守った方が良い。怠を買えば、善い終わりはなく、旧を棄てれば、不祥を招くもの。鼓人がよくその君に仕えるように、私も我が君に仕えている。義によって行動すれば誤りはなく、好悪(善悪)が適切ならば、城を得ることができ、民も義が存在する場所を知ることができるのだ。命を棄てて二心を持つことがない姿こそ、正しい姿ではないか」

 

 荀呉は鼓城攻略が間違いなく成功すると信じていた。故に頑なに義を示したようである。暫くして鼓人は晋軍に食糧がなくなり力尽きたことを報告した。

 

 それにより、晋軍は鼓を占領してから、一人も殺すことなく、鼓君を連れて兵を還した。


「見事なものであるな」


 叔向は馬車に揺られながら、呟いた。


 荀呉は何という大度な態度で戦をし、戦果を立てただろうか。正に王者の戦とも言うべき戦であると言うべきだろうか。


 彼は些か、政治的能力に欠けるが軍人としては有能であった。


(だが、政治家としてはな……)


 荀呉の軍事の才覚はある。しかし、一方で尖りすぎる才覚とも言えていた。


(やけに金と労力を使う戦をする)


 前は奇襲戦法を駆使した戦で労力を消費し、今回の戦では時間を掛けまくり、物資と兵を消費させすぎた。


(王者の戦は最も金のかかる戦と言える)


 かつての晋にならその戦を何度も行えるだけの力があった。しかし今の晋にはその力は無い。


(悲しいものだ)


 勝利を求めながら、軍に束縛を与えねばならない国の状況、これはやがて国への不満に繋がなることになる。


 そんなことを考えながら士鞅しおうの屋敷を通った。その庭に奇妙な光景があった。男が庭の槐の木に縛り付けられていたのである。


(あれは董叔とうしゅくか)


 彼は男のことを知っていた。そして、何故ああなっているのかも瞬時に理解した。


 晋の大夫・董叔が士匄しかいの娘(士鞅の妹)を娶ることになった。それを聞いた叔向は知り合いであったこともあり、反対した。


「士氏は富裕すぎます。富家は驕慢であるため、他者を侮るものです。結婚はおすすめしません」

 

 しかし董叔は、


「婚姻によって繋援(援助)を作りたいのだ」


 と言って、彼の言葉を無視した。

 

 結婚後のある日、董祁とうき(董叔の妻)は兄の士鞅にこう訴えた。


「董叔は私に対して不敬でございますわ」

 

 前々から自分の妹たちに甘いところのある士鞅は怒り、董叔を捕まえると庭の槐の木に縛り付けたためにこのような光景があるのである。


 縛り上げられている董叔は叔向に気づいて、叫んだ。


「私を助けるように請願していただけないか?」

 

 すると叔向は、


「あなたは『繋』を求めて既に繋がれておられます。『援』を求めて援(引っぱる。引き上げる。木等にしがみついて登るといった意味がある。ここでは木に縛りつけられている姿)を得ました。自ら望んだことを全て得たにも関わらず、これ以上何を請うと言われるのでしょうか?」

 

 そのまま彼はその場を離れた。


(愚かな男ばかりか……)


 叔向はそう呟いた。





 

 叔向の行き先は趙成ちょうせいの屋敷である。趙成が彼を招いたためである。


「ようこそいらっしゃった」


(相変わらず、無愛想な男だ)


 全く表情を買えない趙成を見ながら叔向は思った。


 屋敷の中を進むと宴の準備が行われていた。


「どうぞごゆっくりなさいませ」


「お言葉に甘えさせてもらいましょう」


 趙成と叔向はそう言い合って、酒を飲み始めた。するとそこに一人の青年が部屋に入ってきた。


「御子息かな」


「左様でございます。我が息子のおうです」


 趙成は趙鞅ちょうおうに近づかせ、頭を下げさせた。


「此度は良くぞ、我が家にいらっしゃいました。どうぞごゆっくりなされますことを」


「良くできた御子息ですな」


 叔向は目を細めながらそう言った。


「恐れながら叔向様は我が国において第一の名臣であられます。そこで一つお聞き頂きたいのですがよろしいでしょうか?」


「これ、鞅」


 息子が図々しさを見せようとしたため、趙成は叱りつけようとすると、叔向はそれを止めた。


「構いませんよ。私は名臣と呼ばれるほどには優れた者ではないが、何でも聞いてみるとよろしい」


「感謝します。では、魯の仲孫蔑ちゅうそんべつ殿をご存知であられましょうか?」


「存じている」


 叔向が頷くと趙鞅は言った。


「仲孫蔑殿には鬥臣(勇士)が五人もいると聞きますが、私には一人もいないのは、何故でしょうか」


 この発言の意味は何だろうか。何故、態々叔向に聞いたのか。だが、彼は自らの発言は叔向の琴線には触れた。


 叔向は目を尖らせ、趙鞅を見た。その眼光に思わず趙鞅は一歩引いた。叔向は彼の発言を純粋な疑問とは取らなかった。


 そう彼は趙鞅の言葉から野心を見据えたのである。それを趙成は横目で見ていた。息子の無鉄砲さには呆れていたものの、叔向がどう返すのかも興味があったのである。


(息子の野心を見抜きながらどういうことを言うのか)


 父として息子が何を考えているのかは理解していた。それを止めようとは父としては思っていない。だが、同時に息子に危うさも感じている。


 それがこの場で少しは改善されるのではないかという期待があった。

 

 叔向は、口を開いた。


「あなたがそれを欲していないからでしょう。もしも本当に欲しているのであれば、私でも交捽(武術の一種)の練習に務めるでしょう」


 もし本気でそのような臣下を望むのであれば、文官の私でも武術の練習をするもので、人材がいないのは本心から求めようとしないからであると彼は言ったのである。


(ほう、意外にも良き助言を申された)


 趙成は彼が冷静そうな風貌でありながら感情の人であることを知っている。


(無視を決め込むこともあると思っていたが、まあ良いここまでだな)


「鞅、下がりなさい」


「はい」


 趙鞅が部屋を出ると趙成は叔向に対し言った。


「意外でしたな。もう少し辛辣な言葉か、無視をされるかと思いましたが」


「何のことかわかりかねますな」


 叔向は酒を一気に飲んだ。


「では、そういうことにしておきましょう。息子のことはどう思われたか」


「才気ばかりが先走りし過ぎております。あと、自尊心が強すぎる。どこかで痛いしっぺ返しにあうでしょう」


 辛辣な言葉を叔向は並べるものの趙成はそれらに頷く。


「なるほど、いやはや難しいものですね。子産殿にも会わせたりしたのですが……」


「子産殿ですか……才気においては子産殿に似ておられる。同時に危うさも似ておりますな」


「ほう、左様ですか」


 意外な言葉であった。子産は腰も低く人当たりも良い。それに比べると息子は些か人を上から見るところなどがあり、似ているところなどは無いと思っていた。


「あの者の才気は大きな刃だ。鄭の先君・簡公かんこう子皮しひという鞘がその大きな刃を包み込み、守っていた。されど一度、鞘から抜けば、刃と言うべき才気は人を問答無用で斬り殺す代物だ」


 叔向はそう言って目を細めた。


「大きすぎる才気は他者を巻き込み、斬ってしまう。子産殿はまだ、自尊心があまり無いためか抜きどころというものを知ってはいたが……御子息はまだ、それを理解されていない」


「なるほど……」


 それが父として感じていた危うさかもしれない。


「だが、御子息は人材というものの価値を理解している。それはある意味では幸運と言えるでしょうな」


「幸運ですか」


「ああ、彼の人材集めに力を貸してあげるべきです。あなたがまだいる内は、あなたが鞘となれようが、あなたがいなくなった後、その鞘となる者がいなければ、ならないでしょう」


「教え感謝します」


「いえ、感謝には及びません」


 叔向は酒を盃に注ぎながら、


「もし御子息の時代に生きておりますれば、私は断固として戦うこともありましょうが……」


(私の後、国をあの者が支配するようになった時、できる限り、まともな政治をしてもらいたい。それだけだ)


 国は弱体はもはや決定的であり、終わりは確実に訪れることになる。ならば、良き終わり方をしてもらいたいと思うことは悪いことだろうか。






色んな人と関わり、教えをもらいながらハイブリット化しつつある趙鞅。


一方、今回で人生最大の大功を上げている荀呉の影の薄さ。

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