叔向
晋の邢侯(巫臣の子)と雍子(元楚人)が鄐の地を巡って争っていたのだが、長い間解決できなかった。
鄐の地は元々二人に領有されていたのだが、分割する境界が問題になったのである。
理官(法官)・士彌牟が楚を訪問している間、叔魚が代わりに政務を行うことになった
韓起は彼に古い訴訟を処理するよう命じた。
そこで叔魚は鄐の問題を調査し、雍子に否があると判断した。つまり雍子は一方的に所有地を拡大しようとしたとしたのである。
ところが、自分の罪を隠すために雍子は賄賂と共に娘を叔魚に嫁がせた。
これによって変心した叔魚は雍子の罪を隠して邢侯に責任があるとした。
納得がいかず、激怒した邢侯は朝廷で叔魚と雍子を殺害に及んだ。
いくらなんでも大臣二人を殺したことは罪だが、殺された方の罪もあった。そのため裁くことは難しかった。悩んだ韓起は叔魚の兄である叔向にどう裁くべきか問うた。
叔向としてもこれは難しい内容であった。殺された叔魚は弟であるものの、殺した邢侯は義兄であった。叔向の妻は邢侯の妹なのである。
(叔魚め……そう言えば、母がこう言っていたな)
彼の母は叔魚を嫌っており、彼が産まれた時、その姿を見てこう言ったことがある。
「この子は虎目(虎のような目)、豕喙(豚のように尖った口)、鳶肩(鷹のように高い肩)、牛腹(牛のように出っ張った腹)をしています。川や溝は水によって満たすことができますが、この子を満足させることはできず、必ず賄賂によって死にます」
そう言って母は叔魚を自分で育てなかった。叔向のもう一人の弟の羊舌虎は異母弟であると同時に同じように予見をしていることを思うと彼女の予見能力は本物である。
しかしながら子供たちを修正しようとしないところが彼女の欠点である。彼女がしっかりと躾を行っていれば、叔向が立派に育っている以上、このような事態を起こさない程度には修正することができたのではないのか。
(母は頭の良い人であるが、好き嫌いの情がありすぎる)
頭の良さと感情の部分が同居した女性と言える。では、自分はどうなのか。
(情で人を裁くことはあったはならない)
それが自分の信じる正義である。
「三人とも同罪と言えましょう。生きている者を処刑し、死んだ者の死体と共に晒せばよろしい。雍子は自分に罪(否)があると知りながら賄賂を贈り、直(勝訴)を買おうとしました。鮒(叔魚)は鬻獄(賄賂によって判決を曲げること)をしました。刑侯は勝手に人を殺しました。彼等の罪は同じです。自分に罪悪があるにも関わらず、美名を得ようとするのは『昏(乱)』です。貪によって職責を棄てるのは『墨(清廉ではないこと)』です。平気で人を殺すのは『賊』です。『夏書(佚書)』にはこうあります『昏、墨、賊は死刑』これが皋陶が定めた刑です。これに従うべきです」
こうして邢侯も処刑され、雍子、叔魚の死体と一緒に市に晒された。
孔子は弟でも庇うことなく公正な刑を用いた叔向を称え、
「古の実直な気風を持っている方だ」
と評した。
かつて叔向が韓起に会った時、彼は自分の財産が乏しいことを憂いた。しかし叔向は彼を祝福した。
韓起は本当に悩んでいるのに祝福されたため、むっとして言った。
「私には卿の名があるにも関わらず、その実(財)がないために二三子(諸大夫)と交流することもできていないことを憂ているのに、あなたが私を祝福するのは何故だ?」
叔向はこう答えた。
「昔、欒書は本来、五百頃の田をもつ資格がありながら、一卒(百頃)の田しかなく、その宮(屋敷)は宗器(祭器)を備えず、徳行を宣揚し、憲則に順じたために、天下に名が知られ、諸侯が親しみ、戎・狄も懐きました。その結果、国を正し、刑を行っても禍を受けず(晋の厲公を殺しても譴責を受けず)、難から逃れることができたのです。ところ息子の欒黶の代になると、驕慢奢侈で貪欲に限りなく、準則を侵して私欲のまま動き、金を貸し出して財を集めるようになりました。彼は本来、難を受けるはずでありましたが、父の徳のおかげで何とか終わりを全うできたのです。逆に欒黶の子である欒盈は父の行いを改め、祖父の徳を修めることに務めました。そのため本来であれば、難から逃れられるはずでございましたが、父の罪がその身におよび、楚に亡命することになりました。また、郤至の富は公室の半分におよび、一族の者が三軍の将帥の半数を占め、富と権勢に頼って驕横を尽くしてきましたが、最期はその屍が朝廷に晒され、宗族も絳で滅ぼされることになりました。八人の郤氏が五大夫三卿(三卿は郤錡、郤犨、郤至のことであるが、五大夫は不明)となり、その寵は大きなものであったにも関わらず、一朝にして滅ぼされ、哀れむ者もいませんでした。これは徳が無かったからです。今、あなたには既に欒書の貧(清廉)があり、私はあなたが欒書の徳も行えると思っています。だから祝福したのです。もし徳を建てられないことを憂いず、財貨の不足を憂いるようならば、弔哀する間もありません。どうして祝福できるでしょうか」
富があることは確かに人との交流を深める上で必要かもしれないが、子孫のことを思うべきならば、徳を得ることこそが必要なことなのである。
韓起は拝礼稽首して言った。
「私は滅亡するところでしたが、あなたのおかげで存続できました。私一人があなたの言葉を受け入れるのではありません。桓叔(曲沃の桓叔。韓氏の祖)の子孫が全てあなたの賜言に感謝しています」
また、ある日、叔向が司馬侯の子に会った時、泣きながら周りの者に言った。
「彼の父が死んでから、私には共に国君に仕える者がいなくなった。かつては、彼の父が先に事を始めれば私が完成させ、逆に私が始めた事を彼が完成させていた。だから全てがうまくいったのだ」
傍にいた籍偃が聞いた。
「君子も比(仲間。党)を作るのですか?」
叔向は首を振り、言った。
「君子は比を作っても別を作らないものだ(助けあっても徒党は作らない)。徳を共にしながらも助けあうことを『比(団結)』といい、党を作って自分を富ませ、自分を利して国君を忘れることを『別(徒党)』というのである」
彼は常にこのように心がけていた。
叔向は私情を持って、政治を行わず、知識と礼を持って国に仕えた名臣である。しかし、感情的な部分があり、国君の誤りを正す上では、先ず自分の安心を確保してから行う面がある。
されど、彼が国を支えてきた名臣であることは揺らぐものではない。




