平丘の会
晋の虒祁宮が完成した時、諸侯が祝賀のために晋を朝見した。しかし諸侯は晋の奢侈を嫌って二心を抱くようになっていた。
その二年後、魯が莒から郠の地を奪ったため、晋は諸侯を率いて魯を討伐しようとした。しかし叔向が晋の昭公に言った。
「諸侯を率いるには先ずは諸侯に威を示す必要がございます」
かつて陳と蔡が楚に滅ぼされた時、晋は二国を助けることができず、諸侯に対する威信が低下していたためである。
そこで昭公は諸侯を集めて会合を開くことにした。呉にも使者が送られた。
秋、昭公は諸侯との会見に先行して、良(地名)で呉子(呉王・夷末)と会見することにしたのだが、
「申し訳ありませんが、水道が不通につき、辞退させていただきます」
と書簡を出し、呉が辞退したため、昭公も帰国した。
七月、晋が邾の南境で治兵(閲兵)した。甲車四千乗が参加する。叔魚(羊舌鮒。叔向の弟)が攝司馬(司馬代理)として諸侯を集めた。
周の卿士・劉の献公と晋の昭公、魯の昭公、宋の元公、衛の霊公、鄭の定公、曹の武公、莒君、邾君、滕君、薛君、杞君、小邾君が平丘で会した。
この時、鄭の子産と子太叔が定公の相(補佐)として会に参加した。子産は幄・幕を各九張準備して出発したが、一方の子太叔は万全を期して各四十張を準備していた。しかし、出発してから荷物が多いことを後悔し、一泊するごとに減らしたため、会合の時には子産と同じ数になった。
晋が衛の地に駐軍した。
すると叔鮒が衛に賄賂を要求するようになり、同時に芻蕘の者(柴草を刈る者)に命じて自由に柴を刈らせた。
叔鮒は司馬の代理であるため、本来は軍法を取り締まる立場にいる。本来、みだりに柴を刈るような者がいたら逮捕しなければならないのだが、彼は逆に柴を奪って衛に圧力をかけたのである。
衛が屠伯を派遣して叔向に羹と一篋(箱の一種)の錦を贈り、こう伝えた。
「諸侯は晋に仕えて二心を抱くことはございません。衛は君(晋君)の宇下(ひさしの下)にいますので(保護を受けていますので)、なおさらです。しかし芻蕘の者が以前と異なるようでございます。止めていただけないでしょうか」
お前の弟をどうにかしてくれということである。
叔向は羹を受け取り、錦を返して屠伯に言った。
「晋には羊舌鮒という者がおり、財貨を求めること貪欲と言うべき男でございまして、将来、禍を受けるでしょう。今回の事に関しては、あなたが君命(衛君の命。錦)を彼に贈れば、解決できることでしょう」
屠伯が納得して退席しようとした時、叔鮒は既に柴刈りを禁止させていた。叔鮒はそろそろ賄賂が届くだろうと察知したのである。金の匂いに敏感な男である。
そんな弟に叔向は呆れていた。
晋はこの会で改めて盟を結ぼうとしたが、斉が反対した。
昭公は叔向を送って周の献公にこう伝えた。
「斉が盟に応じようとしません。どうすれば良いでしょうか」
彼は、
「盟とは信を示すためにあるのです。晋君に信があり、諸侯に二心がないのであれば、斉討伐の成否を心配することはないではないですか。文辞によって告げ、軍によって監督すれば(文によって譴責し、その後、大義名分のある討伐を行えば)、晋君の庸(功績)が増えることになりましょう。天子の老(卿士)が王賦(王軍)を率い、元戎(大きな兵車)十乗で先導すれば、相手は遅かれ早かれ晋君の命に従うようになります」
晋がしっかりとした対応をすれば、周王室としては斉の討伐に協力するという意味である。
周王室の支持を得た晋は叔向を送って斉にこう伝えた。
「諸侯が盟を求めてここに集まったにも関わらず、斉君は利がないと申されますが、我が君は結盟を望んでいるのです」
斉人が答えた。
「諸侯の中で二心を持つ者が現れた時、諸侯は協力してそれを討伐する必要があります。そのために、以前の誓約を確認して盟を結び直すのでごらいます。今は皆が命を聞いているにも関わらず、なぜ結び直す必要があるというのでしょうか」
態々盟の焼き直しを行う必要はないはずなのである。
これに叔向は、
「事(朝見・聘問)があるにも関わらず、業(貢賦)がなければ、事があっても不経(正常を失うこと)となります。業(貢賦)があろうとも礼がなければ、経(常態)があっても不序(上下の秩序がないこと)となります。礼があろうとも威がなければ、序(秩序)があっても不共(恭敬ではない様子)となります。威があろうとも不昭(明らかにできないこと)であれば、共(恭敬)でも不明となります。不明では神に告げることができません。不明は共を損ない、百事が完成できなくまってしまいます。これが国が滅びる理由です。だから明王の制度では、諸侯は毎年聘問して自分の業(職責)を修め、三年ごとに朝見して礼を講じ(学び)、再び朝見したら諸侯と会して(六年で一回会見したら)威を示し、再度会せば、盟を結んで(十二年に一回盟を結んで)信義を明らかにしたのです。友好の中で自分の業を修め(毎年の聘問)、等級秩序の中で礼を講じ(三年ごとの朝見)、衆の中で威を示し(六年ごとの会見)、神の中で信義を明らかにする(十二年ごとの会盟)から、古来、過失がなかったのです。存亡の道はこのようにして興るものであり、我が国は礼によって盟を主持しているものの、それでもうまくできないことを恐れ、斎犧(会盟の犠牲)を奉じて諸君の前に並べ、良い終わりを願っているのです。しかし貴君は『盟を結ぶ必要はない』と言いました。それでは斎儀に何の意味があるというのでしょうか。斉君はよくお考えください。我が君はその命に従います」
もし斉がこれ以上、反対するのであれば、晋は止めない。但し出兵を招くことを考慮なさってくださいと彼は遠まわしに脅した。
斉は恐れてこう答えた。
「大国は小国の発言を裁くものでございます。命に逆らうつもりはございません。既に命を聞いたので、恭敬な態度で会に参加し、晋君の命に従いましょう」
こうして斉が従うようになったとはいえ、叔向は昭公に言った、
「諸侯の間の間隙が生まれております。武威を示さなければなりません」
八月、晋が再び治兵した。そこで多数の旌旗(各種の旗)を並べたが、旆(旒。装飾。恐らく吹き流し)をつけなかった。
翌日、旗に旆がつけられた。旆がついた旗は用兵を意味がある。諸侯は晋の討伐を恐れた。
そんな中、邾人と莒人が晋に魯を訴えた。
「魯が朝も夕も我々を侵しているため、滅亡が目前に迫っております。我々が貢賦を納めることができないのも魯のためです」
これによって晋の昭公は魯の昭公に会わず、叔向を送ってこう伝えた。
「諸侯は甲戌(初七日)に盟を結ぶが、我が君は貴君に仕えることができない(魯君を満足させることができない)と知っているため、貴君が参加する必要はない」
魯の孟椒(子服恵伯)が答えた。
「貴方の君は蛮夷の訴えを信じて兄弟国との交わりを絶ち、周公の後胤を棄てるのでしょうか。そうだとしても、我々は貴国の命に従うだけでございます」
叔向は毅然とした態度で、
「我が君は甲車四千乗を率いており、たとえ道を行わなくとも、諸侯からは恐れられている。もし道に従って動けば(小国を侵した魯を討つという大義名分があれば)、敵う者はいないだろう。牛はたとえ痩せていても、豚の上に乗れば豚を圧死させることができるのだ」
たとえ晋が衰弱していたとしても、魯に負けることはない。
「それに南蒯と子仲の憂を忘れることが貴国にできるのだろうか。もしも晋の衆を率い、諸侯の軍を用い、邾・莒・杞・鄫の怒りを理由に魯を討伐し、二憂(南蒯と子仲の憂)を利用すれば、どのような要求もかなえられるだろう」
魯は国の中に爆弾を抱えた状況である。そのため晋の介入を恐れて会盟の参加を辞退した。
これによって、晋が一方的に魯を受け入れなかったというのではなく、魯が断ったということにすることができたのである。
諸侯が昭公に朝見した。昭公が翌日正午までに除地(会盟を行う場所の意味)に集合するように、諸侯に命じた。
諸侯が解散してから、子産が外僕(臨時の外泊を管理する官)を招き、速やかに除地で幄幕を張るように命じた。しかし子太叔は、
「慌てる必要はないだろう」
と考えており、翌日まで待つように指示を出した。そのため、幄幕を張る作業が中止された。
夕方、それを知った子産がすぐ除地に趣いたが、既に諸侯が集結しており、幄幕を張る場所はなかった。
出発時と今回の幄幕の出来事は、子産が子太叔よりも機敏なことを表している。
諸侯が平丘で盟を結んだ。
子産が承(貢賦の軽重)について争い、こう言った。
「昔、天子が貢の序列を定め、それによって軽重が決められました。序列が尊貴であれば、あるほど貢も重いというのが周の制度です。位が卑しいにも関わらず貢が重いのは、甸服(王畿内)の場合だけです」
王畿には卿大夫の采邑が多いため、公爵や侯爵よりも位が低くとも、貢賦は重くなる。甸服の外なら爵位が高いほど貢賦も重くなる。
「ところが、鄭は男服(甸服の外。外服の一つ)であるにも関わらず、公侯の貢に従うことになっております。これでは今後、供給を続けるのは困難と言えます。よって敢えて請願します。諸侯は兵を休め、友好に勤めるべきです。今は行理の命(晋から派遣される使者の命。貢賦の催促)が来ない月はなく、貢にも際限がないため、小国は晋を満足させることができず、罪を得ております。諸侯が盟を修めるのは、小国を存続させるためです。しかし貢献に際限がなければ小国は滅亡を待つだけです。存亡を決める制度は、今日にかかっていると言えましょう」
日中(正午)からこの討論は始まり、日が暮れる頃、やっと晋が同意した。盟を結んでから、子太叔が子産を咎めた。
「諸侯がこれを機に鄭を討伐するようになったら、あなたはどう贖うつもりなのですか」
子産は、
「晋の政治は多門であるため政令が複数の卿大夫から出ており、そのため考えが一致することなく、とりあえずの安寧を保つことで精一杯だ。他国を討伐する余裕はない。そもそも、他国と競うことをあきらめて、他国の虐げを受けるだけの国を、本当の国と言えるだろうか?」
彼はしっかりと国に被害が出ないように考えている。確かに晋に従うことだけを考えれば、何も言わない方が良いだろう。しかし、意見を述べることができない国が本当に国と言えるだろうか。国としての立場をしっかりと示すことができなければ、国は国ではいられなくなる。
国としての誇りを失った時、それは最早国では無いのだ。
魯の昭公は会盟に参加しないことが決定された頃、孟椒が言った。
「晋は蛮夷を信じて兄弟を棄てました。その執政(政治を行う者)には二心があります」
兄弟の魯ではなく莒に傾いているからである。
「二心があれば必ず諸侯を失うことでしょう。魯を失うだけのことではありません。失政(諸侯を失うこと)した者は必ず他の者を害すことになりましょう。その害は魯に及ぶことになります。魯は害を警戒し、晋に対して恭敬でなければなりません。上卿を送って謝罪するべきです」
季孫意如が言った。
「その言に誤りがないのであれば、私が行くべきであろう。しかし私が行ったら、晋は私に害を加えるだろう。誰か貳(副使)になる者はいないだろうか?」
「私が提案したことです。難を避けるつもりはございません。私に従わせてください」
そう孟椒が言ったため、彼が季孫意如に同行した。
晋は季孫意如が来ると彼を捕え、牢の代わりに幕で覆って狄人に監視させた。
司鐸(官命)・射(魯の大夫)が懐に錦を入れ、氷水が入った壺を持ち、地を伏せて秘かに季孫意如に会いに行った。守者が遮ったが、錦を渡して幕の中に入った。
諸侯が解散してから、晋は季孫意如を連れて帰国した。
「私が必ず、助け出してみせよう」
孟椒はそう言って、季孫意如に同行して晋に行った。




