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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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南蒯

 魯の季孫意如きそんいじょが季氏を継いだ時のこと、南蒯なんかい南遺なんいの子。季氏の費邑の宰)に礼を用いなかった。


 そのことをきっかけに季孫氏に不満を抱くようになった南蒯は公子・ぎん(または「整」。字は子仲しちゅう)に言った。


「私が季孫氏を追い出し、財産を公(公室)に返しましょう。あなたが季孫氏に代わってその地位に立つなら、私は費邑を挙げて公臣となります」

 

 子仲がこれに同意したため、南蒯は叔仲小しゅくちゅうしょう叔仲帯しゅくちゅうたいの子)にも同じ話をし、季孫氏の無礼を訴えた。

 

 かつて季紇きこつ(季孫意如の父)が死んだ時、叔孫婼しゅくそんしゃくが再命(国君の命。命の重さによって一命・再命・三命という等級がある)によって卿に任命された。

 

 季孫意如が莒を討伐して勝つと、叔孫婼に与えられた再命は三命に改められた。叔孫婼は莒討伐に参加しなかったが、季孫意如が功績によって三命を与えられ、卿に任命されたため、先に卿になった叔孫婼も再命から三命に改められたようである。

 

 叔仲小は季孫氏と叔仲氏の関係を悪化させたいと思っていたため、季孫意如に言った。


「三命が父兄を越えるのは非礼と申せます」

 

 これは理解が難しい言葉と言える。


「父や兄が三命を受けていなければ、子や弟は三命を受けてはならない」と言っていると取れるが、そのような決まりはない。


 もしこのような規則があれば、先代が三命を受けたことがある家系でなければ子弟が三命を受けることはできなくなる。


 そうなると「莒討伐に参加していないにも関わらず、父兄を越えて三命を受けるのは非礼です」という意味にも思えるが、はっきりしない。

 

 ともかく叔仲小の言葉を聞いた季孫意如は、


「その通りだ」


 と言って納得し、叔孫婼に自ら三命を辞退するよう勧めた。

 

 すると叔孫婼はこう言った。


「我が叔孫氏には家の禍があり、嫡子が殺されて庶子が立つことになったのです。だから私がここにいるのです。もしも禍によって叔孫氏が倒されるとすれば、命(天命)を聞くだけでございます。君命(三命)を廃さないとしても、私の地位は既に定められております」


 禍を越えて既に自分が家を継いだ。これは天命によって定められた地位と言えるため、君命を廃すか廃さないかは関係ないではないかということである。

 

 叔孫婼は入朝すると官吏にこう命じた。


「私は季孫氏を訴えるつもりだ。書辞に偏りがあってはならない」

 

 これを聞いた季孫意如は叔孫婼に三命を辞退するように勧めたことが誤りだったと気付き、恐れて罪を叔仲小に着せた。

 

 そのため叔仲小も南蒯、公子・憖と共に季氏討伐を相談するようになった。

 

 公子・憖は昭公にこの事を報告してから共に晋に向かった。本年夏のことである。


 二人は晋から兵を借りて季氏を討伐するつもりであったが、昭公は晋に入国を拒否されてしまった。そうなっては仕方ないため、公子・憖だけが入った。

 

 そのことを知った南蒯は計画の発覚と失敗を恐れ、費邑を挙げて斉に降った。彼は謀略を行う上で、待つということができなかった。

 

 使者として晋に行った公子・憖は、帰路について衛まで来た時、魯国内の混乱を聞いた。そこで介(副使)を置いて先に帰ったが、郊外で費(南蒯)が叛したと知り、斉に出奔した。

 

 謀略に関わっていた同志の一人がさっさと謀略の場から降りてしまったのである。

 

 南蒯が謀反する前に、情報を得た郷人が南蒯の家の前を通って嘆いて言った。


「憂いるべきことだ。思慮は深いが謀は浅い」


 専横する季孫氏を討伐するのはよく考えてのことであるものの、魯と関係が悪化している晋に安易に頼ったのは浅はかと言える。断られる危険性を考えていないからである。


「身は近いが志は遠い」


 季孫氏の臣下であるため、季孫氏の近くにいた人物と言える。しかしながら彼は魯の公室を思って謀反を企んだとしているため、志は遠いということになる。


 結局は言葉は言い繕うとも自分のためでしかないということがバレバレなのだ。


「家臣(卿大夫の臣)でありながら国君のために謀るには、優れた人材が必要である。南蒯では荷が重いことだ」


 南蒯如きが行える謀略とは言えなかったのである。しかしながらこの情報を得た郷人というのが、どういう人物かはわからないが、ただの村民だとするとどれだけ彼の謀略がバレバレであったことなのかがわかる。

 

 また、南蒯が枚筮を行った。牧は「微」に通じ、「隠す」という意味で、「牧筮」とは目的をはっきりさせずに吉凶を卜うことになる。

 

 筮の結果、『坤』の卦が『比』の卦に変わり、卦辞には「黄裳元吉」とあった。南蒯はこれを大吉だと信じ、孟椒もうしゅう(子服恵伯)に見せてこう聞いた。


「今、何かを望めば、かなうでしょうか」

 

 孟椒はこう答えた。


「私はかつて『易』を学びました。忠信の事を望むのなら成功しましょう。そうでなければ必ず失敗するでしょう。外見は強いにも関わらず、内側が温順なことを忠と申します。和によって貞(卜)を行うことを信と申します(『比』は剛強、『坤』は従順に通じ、また『比』は水と土が和している卦)。だからこの卦の辞を『黄裳元吉』と申すのです。黄は中(内側に着る服)の色です。裳は下の飾(下半身に着る物)です。元は善の長です。中が不忠ならその色を得ることができず、下が不恭ならその飾を得ることができず、事が不善ならその極(基準。準則)を得ることができません。内外が倡和すれば忠になり、信を用いて事を行えば恭になり、三徳(忠・信・極)を養えば善となり、この三者がそろえば失敗することはございません。そもそも、『易』とは危険を占うものではないのです。あなたは何をするつもりでしょうか。下を飾るつもりでしょうか(家臣として恭順でいるつもりでしょうか)。中が美しければ黄になり、上が美しければ元になり、下が美しければ裳になり、三者がそろえば筮の結果は吉と申せます。しかし、もしどれかが欠けていたら、たとえ吉と出てもその通りにはなりません」

 

 南蒯は費邑に入って郷人に酒を振る舞おうとした。しかし郷里に行くと、ある人が南蒯を謗って歌っていた。


「私には菜園があるが、杞ができてしまった(杞は菜園ではなく水の傍に生える木)。私に従うのは立派な男、私に逆らうのは卑怯な男。親しい者(季孫氏を指す)を裏切るのは恥なこと。仕方がないことであろうな。彼は我々と同類の士ではないのだから」

 

 この一連の流れの中で、南蒯と叔仲小が繋がっていることがわかった。季孫意如は自分で動こうとせず、叔孫婼を使って叔仲小を追放しようとした。


 それを聞いた叔仲小は入朝しなくなった。

 

 叔孫婼は官吏を送って叔仲小に入朝を勧め、


「私は怨府(怨みを集める場所)になるつもりはございません(季孫氏に協力してあなたを追放するつもりはありません)」


 と伝えた。



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