投壺
夏、宋が華定を魯に送って聘問した。宋の元公が二年前に即位したことを報告し、併せて魯との関係を強化することが目的である。
魯は華定を宴に招いて『蓼䔥(詩経・小雅)』を賦したが、華定は賦で応えることができなかった。
『蓼䔥』の詩には『宴会の楽しい話を忘れることはない』『君子に会えたことを、栄光としよう』『互いに兄弟とよびあい、美徳と長寿に限りがない』『万福を共にしようではないか』等の句がある。
華定がその『蓼䔥』に応えなかったというのは、宴会を忘れ、栄光を宣揚せず、美徳を知らず、同じ福を受け入れなかったことになる。
魯の叔孫婼が言った。
「彼は亡命することになる。宴会の語(談笑)を心に留めることをせず、寵光(栄光)を宣揚せず、美徳を知らず、同福を受け入れないにも関わらず、どこで存続できるというのだろうか」
夏、斉の景公、衛の霊公、鄭の定公が晋に出向いた。晋の新君・昭公が即位したためである。
魯の昭公も晋に向かったのだが、二年前に魯が郠を占領した際、莒人が晋に訴えたことがあった。晋は平公の喪があったため、解決できなかった。
そこで今回、晋は昭公の入朝を拒否した。
昭公は黄河で引き返し、公子・憖(大夫)を晋に送った。
晋の昭公が諸侯を享(宴の一種)に招いた。定公の相(補佐)を勤める子産は、簡公の喪中のため享の参加を辞退し、喪が明けてから晋の命を聞くことを請うた。晋はこれに同意した。
次に昭公は景公を宴に招いた。荀呉が昭公の相を勤める。
昭公と景公が投壺(矢を投げて壺に入れる遊び)を始めた。
昭公が先に投げるために矢を持つと、荀呉が祈った。
「酒は淮水のように流れ、肉は丘のように積まれ、我が君が命中させたのであれば、諸侯の師(長)を務める」
因みにこの言葉の原文は以下の通りである。
「有酒如淮,有肉如坻,寡君中此,為諸侯師」
古音では淮・坻・師が韻を踏んでいる。
昭公の矢は壺に入った。一方の景公は矢を持ってこう祈った。
「酒は澠水のように流れ、肉は山陵のように積まれ、私が命中させれば、貴君に代わって振興する」
原文は以下の通りである。
「有酒如澠,有肉如陵,寡人中此,與君代興」
古音では澠・陵・興が韻を踏んでいる。
景公の投げた矢も壺に入った。
士伯瑕が荀呉に言った。
「あなたの言葉には誤りがあったと言えます。我々は元々諸侯の長なのです。壺に入ったところで何の意味がありましょうか。斉君は我が君を軟弱とみなし、今回帰国すれば、二度と来なくなりましょう」
彼が余計な願い事をしたことで、晋は諸侯の長でいられることに不安を示してしまったことになる。景公はそれを見て、祈ったのである。
しかし、荀呉はこう反論した。
「我が軍の帥(統帥)が強く、卒(兵)が勤勉であるのは、今も昔も変わっていないではないか。斉に何ができるというのか」
堂下で控えていた斉の大夫・公孫傁は、彼らの会話を聞いて晋と斉の関係が悪化することを畏れた。そこで小走りで進み出て、
「もう遅くなりました。主公もお疲れですので、退席致します」
と言うと、景公を連れて退出した。
ある人が楚の霊王に大夫・成熊(または「成虎」。あるいは熊が名で虎は字。以前の令尹・子玉の孫)を讒言した。
成熊はそれを知って亡命しようとしたが、その動きはすぐに発覚し、霊王に殺された。
処刑の理由は、
「成熊は七十年以上前に滅ぼされた若敖氏の余党であった」
というものであった。
晋の荀呉は斉軍と会すふりをして鮮虞に道を借り、昔陽(鼓の都城)に入った。但し、駐軍しただけで占領はしていない。彼の狙いは肥であり、肥が警戒していない隙に侵攻した。
八月、晋が肥を滅ぼし、肥子・緜皋を連れて引き上げた。
彼は先の斉との投壺でのことで汚名を雪ぎたかったのかもしれない。
周の原伯・絞(大夫・原公)が暴虐だったため、多くの人が逃走した。
十月、原の人々が原伯・絞を駆逐し、公子・跪尋(絞の弟)を立てた。原伯・絞は郊(周の地)に逃げた。この件は厲王追放事件と類似している事件である。
原伯・絞は小厲王と言うべきか?
他にも周には事件が起こった。
周の卿士・甘の簡公には子がいなかったため、弟の過が継いだ。これを悼公という。
悼公は成公と景公(どちらも甘の先君)の家族を除こうとしたため、成公と景公の家族はもう一人の卿士・劉の献公(劉の定公の子)に賄賂を贈って悼公の暗殺を頼んだ。
その結果、甘の悼公が殺され、成公の孫・鰌が立てられた。これを平公という。
他にも献太子(恐らく周の景王の太子・寿のこと)の傅(教育官)・庾皮の子・庾過が殺され、更に市で瑕辛が殺され、宮嬖綽、王孫没、劉州鳩、陰忌、老陽子(六人とも周の大夫)も殺害された。
全て悼公の党であったためで彼ら勢力が一層されたのである。




