鄭の簡公
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紀元前530年
春、斉の高偃(高酀)が兵を率いて斉に出奔していた燕の簡公(または「恵公」)を陽(または「唐」。燕の地)に入れた。陽の民衆が迎え入れたためである。
斉は彼を利用して、燕に対し、影響力を持とうとしたが、残念ながら燕の簡公はその地にたどり着くと死んでしまった。
病死と思われるが、もしかすれば燕の手のものによって暗殺された可能性もある。
この頃、鄭に大きな悲しみが生まれようとしていた。
三月、鄭の簡公が病に倒れたのである。そして、病に倒れた簡公は子産を呼んだ。
「主公、子産様が参りました」
「入れよ」
子産が簡公の寝室に入ると簡公は身体を起こし、弱々しい笑みを浮かべながら彼を招いた。
「良く来てくれた」
簡公は子産と二人っきりにするよう使用人に言ってから子産に近づくよう手招きをする。子産は近づき、言った。
「主公、お身体は如何でしょうか?」
「悪いな。私の天命も後、僅かなようだ」
簡公は笑みを浮かべる。
(本当に悪いのだな)
簡公は案外、正直な人である。冗談を言うような人ではない。
「私の後は寧で良いな」
「ええ」
「まあ、汝が上手くやるだろうから心配はしておらん」
簡公はそう言ってから目を細める。
「こうやって、二人で話しのも久しぶりであるな」
「そうですね」
「子産の教育は厳しかった」
「そうでしょうか?」
昔の頃を思い出しながら話し始めた。
「とても厳しかったとも。あの頃に近くにいた者たちの中で汝が最も怖かった」
幼かっただけにその印象は特に大きかった。
「私が最初に勇気というものを意識したのは、汝に話しかけることであったよ」
人に話しかけることがあれほどに勇気が必要だとは思わなかった。
「しかし、汝に話しかけて良かったと心の底から思っている。汝からは多くのことを学んできた」
国君としてどうあるべきか。幼いとはいえ、国君であるのだと子産は厳しくともそれを教えてくれた。
「今の私があるのは、汝のおかげだ」
「いえ、私こそ主公のおかげで今があるのです」
もし簡公という人がいなければ、このような地位にいることもなかっただろう。
「私だけでもありません。皆も同じように思っておりましょう」
他の者たちも簡公がいなければ、用いられなかった者たちも多い。
「私は何もしてはいない。皆が努力してきたそれだけだ」
しかし、子産は知っている。簡公がどれだけ臣下を大切にしてきたかを、どれほど我慢と忍耐をもって国君としての職務を果たしてきたのかを。
(この方は父上たちの名誉さえも守ってくださった)
あの時の乱によって父上たちは殺され、簡公は賊に首を縦に振るしかない状況の中、賊に首を振ることはなかった。
もし、賊の言う通りにしていれば、危険はなくとも、父上たちの名誉は汚され、国はどうなっていただろうか。
そう考えれば、この方がどれほどすごい方なのだろうか。この感動はあの時、あの場にいた者にしかわからないだろう。
それが子産の数少ない誇れることの一つでもある。
「では、そろそろ時間であったな」
簡公は寝床から出ようとした。
「ご無理をなさってはなりません」
「子産よ。私は国君なのだ。死ぬその瞬間まで国君なのだ。ならば如何なる時も国事を怠るわけにはいかない」
簡公は服を着替え、朝議へと向かおうとする。それを止めようと子産は手を伸ばすが、途中で止める。
「では、行きましょうか主公」
「ああ……ありがとう子産。汝のおかげで私は国君としての義務を果たせる」
「私も主公のおかげで臣下としての義務を果たすことができております」
互いに微笑み、朝会へ向かった。
簡公の具合が悪いことは皆、知っているため、今日の朝議に簡公は出席しないだろうと考えていた。しかし、そこに簡公と子産が現れたために皆、驚き急いで拝礼を行う。
「すまない。少し遅れたが朝議を行おう」
すると子太叔が進み出て言った。
「失礼ながら申し上げます。主公のお身体の具合が悪いとお聞きしております。無理をなさらぬ方がよろしいかと思いますが」
「游吉の言葉は嬉しく思う」
簡公は臣下たちを見回し、言った。
「しかしながら皆が臣下としての義務を果たしているというのに、私が休むわけにはいかない。何故ならば、私は国君であり、国君としての職務と義務を果たせればならない立場だからである」
ひと呼吸置き、彼は小さく手を広げ言う。
「では諸君、その職務と義務を果たすため、朝議を始めよう」
子産と子皮はその言葉を受け、静かに拝礼を行い、子太叔らもそれに合わせるように拝礼を行い、朝議が行われた。
この数日後、簡公は世を去り、子の寧が立った。これを鄭の定公という。
簡公の葬送のために道を清めて障害になる物を除くことになったのだが、その道の途中に游氏の廟が喪車の通り道にあたっていたため、子産は子太叔に取り壊しを命じた。
しかし命じられた子太叔は徒衆に道具を持って立たせるだけで、作業を開始せず、こう指示した。
「子産殿がここを通ってなぜ作業を始めないのかと尋ねたら、汝等はこう言え『廟を取り毀すのが忍びなかったのです。しかしわかりました。これから作業を始めます』と」
子産が視察に来ると、徒衆が言われた通りに話した。
(全く、仕方ないな)
子産は游氏の廟を避けて通る道を選び直すように命じた。
また、この時、司墓(公族の墓を管理する官)の家も葬送の障害になっていた。家を撤去すれば朝のうちに埋葬が終わるが、撤去しなければ遠回りになるため、日中(正午)までかかっていた。
子太叔は司墓の家を取り壊すように請い、こう言った。
「撤去しなければ、諸侯の賓客に対して申し訳が立ちません(葬送が昼までかかるのは誰も望んでおりません)」
彼の発言は都合が良いと言える。自分の廟は壊さないで欲しいと思いながら、自分と関係ないものは壊しても良いと言っていることになる。
子産はため息をつき、
「遠くからわざわざ我が国の葬儀に参加しに来た諸侯の賓客が、日中になることを心配すると思うであろうか。賓客にとっては朝も昼も変わらないと思うはずだ。賓客を損ねず、民を害すこともない方法があるのならば、それを選択するべきではないか」
司墓の家は撤去されず、正午に簡公の埋葬が終わった。
君子(知識人)は子産をこう称えた。
「子産は礼を理解している人物である。礼をわきまえた者とは、人を害して自分の事を成そうとはしないものだ」
葬儀の後、辺りが暗くなり始める中、子産は公宮を見つめていた。
(子太叔よ。私の後はお前が継ぐのだぞ)
それなのにこれでは果たして国を背負っていけるのかと彼は心配になる。
「主公はもういないのだぞ」
「そうだな」
自分の呟きに答えた者がいたことに驚くとそこには子皮がいた。
「信じられないことだな。主公がいないというのは」
「そうですね」
(子太叔のことを言っていたこととは思っていないようだ)
内心、良かったと思いながら彼は言った。
「主公がいなければ、今の私はいなかったと思います」
「私もだ」
二人は並んで、公宮は見つめる。
「主公は月のような方であった」
「月ですか」
「ああ、あの方は太陽のように強い光ではなくとも、この夜という暗闇を静かに優しく見つめてくれる光を放つ月のようであった」
春秋時代の名君と言えば、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王と強烈な個性と輝きを持っていた者たちばかりである。
一方の鄭の簡公はそう言った強烈な個性や輝きとは無縁であるものの、確かに名君と呼べる人であった。
「さて、私は帰るとするか」
「では、私も」
二人は互いに顔を見合わせて、
「臣下としての職務と」
「義務を果たすために」
そう言って、微笑んでから二人は別れた。




