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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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暴君への諫言

 十二月、周の単の成公せいこうが死んだ。

 

 楚の霊王れいおうは滅ぼした陳、蔡と不羹に城を築いた。そして、棄疾きしつ)(霊王の弟)を蔡公に任命し、治めさせた。

 

 後に霊王が大夫・申無宇しんむう)(芋尹)に聞いた。


「棄疾は蔡でどうしているだろうか?」

 

 申無宇はこう答えた。


「子を選ぶのは父より相応しい者はなく、臣を選ぶのは主君より相応しい者はないと申します(国君は適切な人材を選ぶべきです)。鄭の荘公そうこうは櫟に築城して子元しげん厲公れいこう)を置きました。その結果、昭公しょうこうが即位できなくしました(厲公が即位して昭公は出奔した)。斉の桓公(かんこうは穀に築城して、そこに管仲かんちゅうを置いたため、今の斉もその功績に頼っております。五大(太子、同母弟、寵を受けた公子、公孫、世襲の正卿)は辺境に置かず、五細(身分が賤しい者、年少の者、疎遠な者、新しく帰順した者と小人)は朝廷に置かず、親族は外に置かず、羈(他国から来た者)は内に置かないと申します。今、棄疾(公子)が外におり、鄭丹ていたん)然丹ぜいたん。鄭から楚に出奔した子革しかく)が内にいます。王は気をつけるべきです」

 

 霊王は何を気をつけるべきかわからないのか。


「国(都)には大城があるのだ。どうであろうか?」

 

「鄭は京と櫟が曼伯まんはく子儀しぎ)を殺し、宋は䔥と亳が子游しゆうを殺し、斉は渠丘(葵丘)が無知むちを殺し、衛は蒲(甯殖ねいしょくの邑)と戚(孫林父そんりんぼの邑)が献公けんこうを出奔させました。これらを見るに、五大が要所におりますれば、国が害されることがわかります。末が大きければ必ず折れてしまい、尾が大きければ振ることができないことは、王も知っているはずです。都に大城があっても備えにはなりません」


 そんなことをいちいち気にしないのが、霊王という人である。彼は陳と蔡を滅ぼしたという功績に胡座をかき始めていたのである。


 章華の台を築いた霊王は、伍挙ごきょと共に台に登って言った。


「この台は美しい」

 

 伍挙が言った。


「国君たる者は服寵(徳によって民に慕われること)を美とし、民を安んじることを楽とし、徳を聞くことを聡(耳がいいこと)とし、遠方の人を帰服できることを明とすると申します。高大な土木(建物)や彤鏤(漆の彫刻)を美とし、金石(鍾と磬)・匏竹(管楽器)が盛大でにぎやかな様子を楽とするという話は聞いたことがございません。大きい建造物や、奢侈・淫色を目にすることを明とし、音楽の清濁を聞きわけること(音楽に没頭すること)を聡とするという話も聞いたことがございません」


 性格以外の趣味嗜好の部分では案外、霊王は晋の平公へいこうと似ており、彼も酒や女、音楽は大分好きである。

 

「先君の荘王そうおうは匏居の台に住んでおりますが、その高さは国氛(国の吉凶の気)を観測するに足りる高さに過ぎず、広さは宴豆(宴席の食器)が入る程度の広さに過ぎず、使用する木材は城郭の守備に影響せず、出費は官府の負担にならず、民は時務(農時)を廃すことがなく、官員は朝常(日常の政務)を変える必要がありませんでした。荘王の宴に参加した者には宋君と鄭君がおります。相礼(宋公と鄭伯の補佐)は華元かげん駟騑しひ子駟しし)が行いました。宴を補佐したのは陳君、蔡君、許君、頓君で、それらの国の大夫がそれぞれの国君に従っておりました。先君はこうして乱を除き、敵に勝ち、諸侯に憎まれることがなかったのです」


 荘王という人は、必要最低限の物しか好まず、民を苦しめるような真似をしなかった人である。楚の歴代の君主の中で民に最も優しかった人でもある。


「しかしながら王はこの台を築くために国民を疲弊させ、財用を使い果たし、年穀を損ない(民が農業に従事できなかったため)、百官も多忙となり、国を挙げて工事に力を注ぎ、数年かけてやっと完成しました。諸侯と共に台に登りたくとも、王には徳がないため、諸侯で至る者はおりません。そこで太宰・啓疆けいきょう(楚の卿・薳子いし)が魯君(昭公)を招き、蜀(魯地)の役を引用して無理に参加させたのです。魯君が来ると、容貌が優れた豎(未成年)に宴を補佐させ、長鬣(髭が長くて美しいこと)の士に相礼を行わせましたが、私には何が美しいのは分かりません」


 霊王は見せかけだけの美しさに目を奪われている。

 

「美とは上下、内外、大小、遠近に害を及ぼさないことをいうのです。目で観て美しくとも、財用を用いて困窮させては美ではございません。民の利(財)を集めながら自分を富ませれば、民を貧しくすることになります。これを美といえるでしょうか。国君足る者は、民と共にいるものです。民が痩せているにも関わらず、なぜ国君が肥えることができましょうか。しかも私欲が増えれば徳義が少なくなるものです。徳義が行われなければ、近い者は離反し、遠い者は命を拒絶するようになるのです。天子が尊貴なのは、公・侯を官正(官の長)とし、伯・子・男に師旅(軍)を指揮させているからです。美名を得ることができるのは、令徳(美徳)を遠近に施し、大小の国を安定させることができるのです。国君が民の利を集めて私欲を満足させ、その結果、民が消耗して安楽を忘れれば、遠心(離反の心)を招くことになります。これは甚だしい悪であり、目で観て美しくても意味がないのです」


 国君が持つべき美しさとは、民とともにあってこそ輝くものなのだ。

 

「先王の台榭(土を盛った場所を台、建物が無い台を榭という)は、榭は軍事を習う場所であり、台は氛祥(凶の気を氛、吉の気を祥という)を観測する場所でございました。だから榭は大卒(王の士卒)に臨む広さがあれば充分であり、台は気を観測する高さがあれば充分だったのです。その場所は穡地(農地)を侵さず、支出は財用を費やさず、工事は官業(官員の政務)を煩わすことはなく、日程は時務に影響しなかったものです。瘠磽の地(痩せた土地)が選ばれ、城守の末(城の防備に使う木材で余った物)が使われ、官僚が暇な時には指揮をさせ、四時(四季)の隙(農閑期)に完成させたのです。だから『周詩(詩経・大雅・霊台)』にはこうあるのです。『霊台の建造が始まった。経営しよう、建造しよう。庶民が参加して、日をかけずに完成させよう。建造の時間を急ぐことなく、庶民は孝子のように進んで働く。王(周の文王ぶんおう)は霊囿に至り、牝鹿がそこに伏しておられる』本来、台榭とは民に利を教えるためにあるのです(台は気を観測して吉凶を把握し、榭は軍事を強化して国を守るためにある)。その台榭を建てるために民を窮乏させれば、本末転倒ではございませんか。王がこの台を美しいと言い、自分の行動が正しいと思うのならば、それは楚にとって危機と申せましょう」


 結局は霊王は彼の言葉を活かすことはなかった。どれほど心を込めた諫言をしても霊王の性根は中々変えられなかったのである。


 ただ、これらの諫言をしても殺さないことはまだ、マシな方であるとも言えなくはない。



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