新君
晋の平公が死に、子の夷が立った。これを晋の昭公という。
諸侯の盟主である晋君の死は晋だけでの問題ではなく、諸侯全体の問題でもある。ただでさえ、楚の霊王が暴虐なのだ。それから守ってもらう晋の弱体は出来るだけ避けてもらいたいというのが、諸侯らの本音である。
鄭の簡公は弔問のため晋に向かい、黄河まで来た。しかし、諸侯が死んだ時の弔問は大夫がするというのが礼であった。そのため晋は簡公を帰らせた。代わりに游吉が晋に入った。
九月、魯の叔孫婼、斉の国弱、宋の華定、衛の北宮喜、鄭の罕虎(子皮)および許人、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、杞人、小邾人が晋に入って平公を葬送した。
諸侯の弔問は大夫が行うものの、葬事には卿が出席するのが礼であった。
子皮は出発する時、晋の新君に贈る幣礼を準備した。今後の晋の新君がどんな人物なのかを知ることは今後の外交を行う上でも大事であるため、それらを使って、印象を良くしようという思いもある。
それを知った子産が反対した。
「喪に幣礼が必要でしょうか。幣を用いるには百輌の車が必要になり、百輌の車には千人の人夫が必要となります。千人が移動すれば、すぐ帰ることができず、すぐ帰らなければ財を使い果たすことになります。千人の幣礼が繰り返されれば、国が亡んでしまいます」
しかし子皮はこの諫言を聞かなかった。
平公の埋葬が終わると、子皮を始め、諸侯の大夫らは新君に会おうとした。魯の叔孫婼は、
「それは礼に合いません」
と言ったが、大夫達は聞きこうとはしなかった。
晋の叔向が昭公の言葉として彼らに伝えた。
「大夫の事(葬事)は既に終わったにも関わらず、私に接見を求めている。しかし私は衰絰(喪服)を着て哀哭しており、嘉服(吉服)で諸大夫に会いたくとも、まだ、喪礼がまだ終わっていないのだ(喪服を脱ぐことができていない)。また、喪服で諸大夫に会うとすれば、再び弔を受けることになる。大夫はどうするつもりであろうか」
諸大夫は答えられなかった。
このように皆、昭公に会うことはできず、子皮は全ての財幣を使い果たして帰国することになった。彼は子羽に言った。
「何かを知ることは難しくない。本当に難しいのは行動することである。彼(子産)はこの道理を知り、私はそれを知らなかった。『書(尚書・太甲・中篇)』にはこうある『欲望は法度を破壊し、放縦は礼義を破壊することである』これは私のことだ。彼は度(法度)と礼を知っており、私は欲に対して放縦で、自制することができなかった」
叔孫婼が晋から帰国すると大夫たちが叔孫婼に会うために集まったが、斉から出奔して来たばかりの高彊(子良)は、叔孫婼に会うとすぐ帰った。
叔孫婼は諸大夫に言った。
「人の子として生きていくには、慎まなければならない。昔、慶封が亡命した時、子尾(しzび)は多くの邑を得たが、いくつかを斉君に譲ったが故に、斉君は子尾を忠臣だと信じて寵用したのだ。後に子尾が死ぬ時、公宮で発病したため、斉君は子尾を輦(車)に乗せ、自ら輦を推して家まで送ったと言う。ところがその子(子良)は父業を受け継ぐことができず、ここに逃げて来ることになった。忠は令徳(美徳)であるが、その子が継承できなかったら罪は子に及ぶ。だから子は慎む必要があるのだ。先人の功労を失い、徳を棄て、宗廟を空にし、罪が自分の身に及ぶことを恐れなければならない。『詩(『小雅・正月』および『大雅・瞻卬』)には『禍が訪れる場所は、私の前でもなければ、後ろでもない』とあるが、まさにこの事を言っているのだ」
慎重にしなければ先人でも子孫でもなく、自分自身に禍が起きることになるのだ。慎むことこそが人の行うべきことなのである。
十二月、宋の平公死に、子の佐が立った。これを宋の元公という。
元公は元々寺人(宦官)・柳を嫌っていた。そのため即位したら彼を殺そうと考えていた。しかし、平公の葬儀を行う時、寺人・柳は元公の座席に炭を置いて温め、元公が座る直前に片付けていた。
葬儀が終わると元公は寺人・柳を寵用するようになった。
この年、孔子に伯魚という子ができた。
孔子は十九歳で宋の亓官氏の女性を娶ったと言われており、その一年後に伯魚が産まれた。
伯魚は字であるのだが、彼が産まれた時、魯の昭公が孔子に一尾の鯉を下賜したため、孔子はそれを栄誉として鯉と命名し、字を伯魚としたと言われている。
これは明らかに嘘っぽい話しである。この時点で孔子の名はそれほど知られていないはずであり、昭公が知るはずはない。
孔子の記述は些か美化するところが多い。個人的には彼は聖人と言われた人物たちの中で最も人間臭い人物であると思っている。




