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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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孔烝鉏

 八月、衛の襄公(じょうこう)が死んだ。

 

 このことを受けて、晋のある大夫が士鞅しおうに言った。


「衛は恭しく晋に仕えているにも関わらず、晋は礼を用いず、賊人をかばってその地を奪っております(衛の孫林父(そんりんぼ)が戚邑を挙げて晋に出奔した時、晋は衛から懿氏六十邑を取って孫林父に与えた件のこと)。これでは諸侯が二心を抱きましょう。『詩(以下、二つとも小雅·棠棣)』にはこうあります『鶺鴒(鳥の名)が平原で助けあい、兄弟に急難があれば助けあうものだ』『死別は恐れるべきである。兄弟が互いに懐かしむべきだ』兄弟が和睦しなければ、お互いが相手に良くすることもできません。遠人に対してならなおさらと言うべきです。これで誰が晋に帰順するでしょうか。衛の後嗣に対しても礼を用いなければ、衛は必ず我々に叛し、晋と諸侯の関係も絶たれることになりましょう」

 

 士鞅がこれを韓起(かんき)に伝えると、韓起は進言に喜び、士鞅を衛に送って弔問した。戚田が衛に返還された。

 

 衛の斉悪(せいあく)が周王室に襄公の喪を報告し、王命(王の言葉)を請うた。

 

 周の景王(けいおう)は郕の簡公(かんこう)を衛に送って弔問し、襄公に追命(死後に命を送ること)した。


「叔父(襄公。同姓の諸侯)が陟恪(天に昇ること)し、我が先王の左右で上帝を補佐することになった。私は高圉(こうぎょ)亜圉(あぎょ)(どちらも周の先祖で、姫姓の衛にとっても共通の先祖に当たる)を忘れるべきではない」







 

 九月、魯の昭公(しょうこう)が楚から帰国した。

 

 仲孫貜ちゅうそんかくは昭公を補佐する立場にいながら礼に精通していなかったことを恥じていた。


 その反省から彼は礼に詳しい者を招き、学ぶようになった。

 

 後に死に臨んだ際、仲孫貜は大夫を集めてこう言った。


「礼とは人の幹(根本)というべきものである。礼がなければ立つことができない。私は孔丘(こうきゅう)孔子(こうし)。字は仲尼(ちゅうじ))という達者(一つの事に秀でた者)がいると聞いた。彼は聖人の子孫であったが、その族は宋で滅んだ。先祖の弗父何は本来、宋の主になるべき人物であったものの、厲公(れいこう)に譲った。その後、正考父に至って戴公(たいこう)武公(ぶこう)宣公(せんこう)と補佐し、三命(三公の命)によって上卿を勤めたものの、ますます恭敬であったという。そのため鼎銘にはこう書かれている『一命を受けながらも頭を低くし、再命を受けながらも体を屈め、三命を受けながらも身を伏せる。道の端を小走りで移動しても(恭敬な姿を示す)、私(正考父)を侮る者はいない(たとえ腰を低くしても人から軽視されることはない)。饘がここにあり、鬻にここがあり(饘も鬻も粥の一種。倹約を意味する)、私の糊口をしのぐ』彼の恭敬な態度はこのようであった。かつて臧孫紇(ぞうそんこつ)もこう言った『聖人(弗父何、正考父等、孔子の先祖)の中に明徳な者がいるにも関わらず、誰も国君にならなければ、その後世に必ず達人(達者。賢人)が現れるものだ』これは孔丘を指しているのだろう。もし私が死んだら、(せつ)何忌(かき)(どちらも仲孫貜の子。説は閲とも書き、南宮敬叔(なんきゅうけいしゅく)という。何忌は孟懿子)を孔丘に仕えさせ、彼から礼を学んでその地位を安定させよ」

 

 こうして二人は孔子に師事することになり、孔子が言った。


「過ちを補うことができるのは君子である。『詩(小雅・鹿鳴)』に『君子は正しいことに倣うものだ』とある。彼にはそれができた」


 と称えた。

 

 因みに仲孫貜が死ぬのは紀元前518年の事で、孔子は三十五歳前後の頃である。

 

 周王室の卿士・単の献公(けんこう)が親族を遠ざけて羈(客臣)を信任していた。十月、襄公(じょうこう)頃公(けいこう)の一族(単襄公の子が頃公。頃公の子は靖公(せいこう)といい、靖公の子が献公)が献公を殺し、成公(せいこう)(献公の弟)を立てた。







 

 十一月、魯の季孫宿(きそんしゅく)が死んだ。

 

 晋の平公(へいこう)士伯瑕(しはくか)に問うた。以前彼が言ったように衛では襄公が死に、魯で季孫宿が死んだからである。


「私が日食について質問した内容が、全て本当になった。このようなこと(予言)は常にできるのだろうか?」

 

「それは無理です。六物は同じではなく、民心は一つではなく、事序(事象の軽重)には同類がなく、官職(官員の職能・能力)も一定ではございませんので、始めが同じであっても終わりは異なるものです。そのため常にこうなるとは限りません。『詩(小雅・北山)』には『ある者はゆっくり休みが、ある者は忙しく国に仕える』とあります。終(結果。事象の状態)が異なるというのはこういうことです」

 

「六物とは何だ?」

 

「歳・時・日・月・星・辰のことです」

 

「歳」は歳星、つまり木星を指すという解釈と、一年を指すという解釈がある。「時」は四時、すなわち四季のこと。日は太陽、または十干(甲日から癸日までの十日)を指し、月は空の月、または十二カ月を指している。星は二十八宿、または空に見える全ての星のことである。

 

「多くの者が私に辰について語るものの、それぞれ内容が異なる。辰とは何だ?」

 

「日と月が会うことを辰と申します。だから辰(十二支)は日に配されるのです」

 

 日と月が会うというのは、太陽と月が重なるという意味で、毎月初一日(朔)にあたる。よって一年は十二回の辰をもつことになる。


 十二辰は十二の月と一致し、十二の月は十二支に符合する。子月、牛月、寅月等です。そのため、ここでの「辰」は十二辰の意味とされ、十二支に置きかえられている。十二支が日(甲日から癸日までの十干)に配されると、六十の干支(甲子・乙丑・丙寅等)になる。

 

 これ以外にも「辰」には北辰(北極星)、大辰(心宿)、三辰(日・月・星)等の意味がある。







 

 衛の襄公夫人・姜氏(宣姜(せんきょう))には子ができず、嬖人(寵姫)・婤姶(しゅうおう)孟縶(もうちゅう)を産んだ。しかし孟縶は足に障害があり、歩行が困難であった。

 

 そんなある日、衛の卿・孔烝鉏(こうじょうしょ)孔達(こうたつ)の孫)が夢で康叔(こうしゅく)(衛の祖)に会いこう言われた.


(げん)(孟縶の弟。夢を見た時はまだ産まれていない)を立てよ。私が()(孔烝鉏の子)の孫・(ぎょ)仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ))と史苟(しこう)(または「史狗」。史朝(しちょう)の子)に補佐させる」

 

 史朝も夢で康叔に会い、こう言われた。


「私は汝の子・苟と孔烝鉏の曾孫・圉に元を助けるよう命じる」

 

 史朝が孔烝鉏に夢の話をすると、孔烝鉏も同じ夢を見たことを話した。そして、晋の韓起が諸侯を聘問した年(紀元前540年)、婤姶が子を産んだ。その子に元と命名された。

 

 孔烝鉏が周易で筮占して、


「元が衛を有して社稷の主となるのか」


 と言うと、『屯』の卦が出た。その後、


「私はやはり縶(孟縶)を立てたい。神霊の嘉を得たい」


 と言って占うと、『屯』が『比』の卦に変わった。孔烝鉏はこれを史朝に見せた。

 

「『屯』の卦の辞は『元亨(大吉。「元が通る」または「元に順がある」ということになる)』です。疑う必要はなく、元が後嗣になるべきと出ています」

 

「元とは長の意味ではないのか。年長者が後嗣になるべきではないのか?」

 

「康叔が元に名を付けたのです。元こそ長(この長は「善」の意味)と考えるべきです。孟(孟縶)はその人(康叔に選ばれた人)ではなく、足が不自由であるため、宗主にもなれません。よって長とは言えません。また、『屯』が『比』に変わった繇辞(占の辞)は『利建侯(侯を建てることが利となる)』です。嫡子(孟縶)が跡を継ぐのであれば、侯を建てる(立てる)ことにはなりません。『建』とは嫡子ではない者が建てられることをいうのです。二卦(卦の辞。『元亨』と『利建侯』)がどちらもそう言っているのですから、あなたは元を建てるべきです。康叔が命じ、二卦がそれを告げたのです。筮と夢が一致するというのは、武王(ぶおう)も経験したことでありますので、従えば間違いがありません。そもそも、足が弱い者は家にいなければならないのです。国君は社稷を治め、祭祀に臨み、民人を奉じ、鬼神に仕え、会朝(会見や朝見)に参加しなければならないにも関わらず、家にいることができましょうか。人はそれぞれ利(長所)に基づいて選択するべきです」

 

 こうして孔烝鉏は元に襄公を継がせた。これを衛の霊公(れいこう)という。



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