趙成
遅れました。
晋が杞の国境を定めに来た。一部は魯が領有しているのだが、魯の昭公が黙って楚に朝見したため、怒って干渉し始めたのである。
季孫宿が成(孟孫氏の邑。元は杞の地)を晋に贈ろうとしたが、成の家宰を勤める謝息が反対した。
「『たとえわずかな智慧しか無くとも、器を守ることになれば、人に貸さないことが礼である』といいます。仲孫貜(昭公と共に楚にいる)様が主公に従っているにも関わらず、守臣(謝息)が邑を失えば、あなた様も私の忠心を疑うでしょう」
だが、季孫宿は昭公が余計なことをしなければ良かったのだと考えており、
「主公が楚にいるために晋の怒りを買ったのだ。更に晋の命(杞の地を返すこと)を聞かなければ、魯の罪はますます重くなり、晋軍が来ても私には防ぐことができなくなる。とりあえず彼等に与え、晋に隙ができたら杞から取れば良いではないか。汝には桃(桃郷)を与えようではないか。成の地が戻れば、誰もそれを領有することはない(再び孟孫氏の邑になる)のだから、二つの成を得たようなものではないか。魯の憂いがなくなり、孟孫の邑が増えるのであれば、汝が心配することはない」
もし、晋が軍を出してくれば、相手をすることになるのは自分であるため、それを避けたいという思いが彼にはある。国の外交問題に完全に私情を交えている。しかも土地を与えてからまた、盗れば良いということまで考えている。
謝息は、桃には山がないと言って辞退したが、季孫宿は萊邑と柞邑も加えた。結局、謝息は桃に移り、晋が杞のために成を取り返した。
楚の霊王が昭公を新台(章華台)の享宴に招いた。
霊王は長鬣(背が高く体格がいいこと。または髭が長いこと)の者を相(賓客の対応をする役)とし、大屈(弓の名)を昭公に贈ったのだが、暫くして弓を与えたことを後悔し始めた。
それを知った薳啓疆が昭公に会いに行って祝賀した。
昭公が何の祝賀か聞くと、薳啓疆が言った。
「斉と晋、越が久しくあの弓を欲しておられますが、我が君は彼等には与えず、貴君に贈られました。貴君は三鄰に備え、慎重に宝を守ってくださいませ。私はこれを祝賀したのでございます」
昭公は恐怖した。自分よりも国力のある国々が欲しがっているものを持っているというのは、危険であることこの上ない。そのため弓を楚に返した。
鄭の子産が晋を聘問した。
ちょうど平公が病を患っていたため、韓起が子産一行を迎え入れ、個人的に問うた。
「我が君は病で寝込んで三カ月に渡っております。全ての望(山川の祈祷等)を行ったものの、一向に良くなりません。最近、夢で黄熊が寝門(寝室の戸)に入るのを見たのですが、これは何の厲鬼(悪鬼)でしょうか?」
「晋の国君には英明があり、しかもあなたが大政(正卿)を勤めておられるのですから、厲鬼が現れるはずがないかと思います。昔、堯が羽山で鯀を誅殺した際、その神(神霊)が黄熊になって羽淵に入ったと言います。その黄熊は夏郊(夏王朝の郊祭の対象)になり、三代にわたって祭られました(夏・商・周が黄熊を祭った。但し、商と周は郊祭ではなく、群神の一つとして祀っている)。晋は盟主でありながら、黄熊を祀っていないのではないでしょうか?」
韓起が夏郊(黄熊)を祀ると、平公が病から回復した。
平公は子産に莒の二方鼎(莒が晋に献上した二つの鼎。鼎の足が三つの物は「円」、四つの物は「方」という)を下賜した。
さて、子産が晋を訪れた理由は色々あり、その一つとして豊施(字は子旗。公孫段の子)に代わって州県(晋から公孫段に与えられた地)を韓起に返還する旨を伝えた。
「かつて貴国の主君は公孫段の能力を称賛しされ、州田(州の土地)を下賜下さりました。しかし今、公孫段は不幸にも早世し(本年一月に死んでいる)、貴君の徳を久しく享受できなくなりました。その息子は州田を敢えて領有することができず、また、貴国の主君に報告することもできないため、こうして私から個人的にあなたにお伝えします」
韓起は辞退しようとしたが、子産が言った。
「古人にはこういう言葉があります『父が薪を割ろうとも、子がその荷を背負うことはできない』父親が勤勉に働いて家業を成したとしても子がその重荷を背負えるとは限らず、施(豊施)は先人(父)の禄を受け継ぐことすら畏れております。大国の賞賜を継ぐことはなおさらできません。あなたが政治を行っている間は彼の不才を赦したとしても、後の人が疆場(国境。州県)の事を話すようになれば、我が国が罪を得て、豊氏は大討を受けることになるかもしれません。あなたが州を受け入れれば、我が国は罪から免れることができ、豊氏も安泰です。よって敢えてお願いに来たのです」
韓起は同意して平公に報告した。平公は州県を韓起に与えたが、韓起はかつて趙武と州県を争った時の事を思い出し、州県を私有することを恥じて、宋の大夫・楽大心が領有する原県(元は晋邑であったが、宋の楽氏の邑になった)と交換した。
さて、公孫段が一月に死んだことは既に書いたが、その時、奇妙なことが起きた。
鄭の人々が、
「伯有が来た」
と言って各地に逃走し、国内が騒ぎになったということがあったのである。
伯有は子晳に殺されているはずであるため、いるわけがないのだが、前年の二月、ある人が夢で伯有を見た。
夢で出てきた伯有は甲冑を着てこう言った。
「壬子(前年三月二日)、私は帯(駟帯。子晳に協力した)を殺す。明年壬寅(正月二十七日)、私は段(公孫段。伯有を攻撃した)を殺すだろう」
そして、前年三月壬子(初二日)、駟帯が死に、本年正月壬寅(二十七日)、公孫段も死んだため、国人は恐怖した。
翌月、子産は公孫洩(子孔の子)と良止(伯有の子)を大夫に立てて伯有の霊を鎮めると、騒動はやっと収った。
子太叔が理由を聞いたため、子産はこう答えた。
「鬼(霊)は帰る所があれば厲鬼(悪鬼)にはならないものだ。私は彼を帰るべき場所に作ったのだ」
つまり、良止が大夫になったことで、正式に伯有の家系の祭祀を継承することになったから伯有の霊は安心したのである。
しかし、それでも疑問は残る子太叔は問うた。
「それならば、なぜ公孫洩も大夫にしたのですか?」
その理屈ならば、公孫洩も大夫にする必要がないではないか。
「喜ばせるためである。伯有はその身に義がないにも関わらず、喜びを求めた(生前は不義によって殺されたのに、死後は鬼となって満足を求めた)。政治を行う立場にいれば(子産を指す)、大義を行って民を喜ばせなければならない。民とは喜ばなければ政治を信じず、信じなければ従うこともないのだ」
つまり伯有も子孔も不義によって殺されたのに、悪鬼になった伯有の子だけが後嗣に立てれば、民は朝廷が悪鬼を恐れたのではないかと疑問を持つようになる。そして、そこから不満が生まれることになる。
そこで、大義によって誅殺された者の後嗣を立てたのであって、悪鬼を畏れて立てたのではないということを示すため、悪鬼とは関係ない公孫洩も大夫に立てたのである。
話は晋に出向いていた子産に戻る。この伯有の霊での騒動は有名であったようで、趙成(趙武の子で今は中軍の佐を務めている)が尋ねた。
「伯有は今後も鬼になるでしょうか?」
「なります。人は死んだばかりの時には魄となり、魄が生まれれば、その陽気の部分を魂といい(魄は陰気)。生前の用物(衣食住に使う物)が洗練されていて豊富ならば、その魂魄は強くなり、精爽(精神)は神明(神霊)になるまで存在するといいます。匹夫・匹婦(庶人の男女)でも強死(殺害等による異常死)すれば、その魂魄は人に憑依して淫厲(暴虐)を行います。伯有は我々の先君・穆公の後裔で、子良の孫、子耳の子にあたり、我が国の卿として三世に渡って政治を行ってきた人物です。鄭は小国で、諺にある『狭小の国』に該当致しますが、三世に渡って政柄を握ってきたため、その用物は多く、洗練されております。また、その族も大きく勢力も厚いにも関わらず、強死したのですから、鬼になるのは当然と言えましょう」
この子産の答えに特に趙成は特に反応を示さず、
「なるほど、よくわかりました」
と言って、さっさと彼との話を打ち切った。
(この人とは始めて会ったのだが、今まで会ってきた人たちの中で一番よくわからない)
彼の父である趙武とはそこまで仲が良いわけではなかったが、会話をすると通ってくるものがあったのだが、彼にはあまり無い。
だが、そこに特に嫌みのような人の感情を逆なでるような部分がないのが、不思議である。また、表情もずっと真顔のままで全然、表情も変えない。
(まあ、良いか)
そう思って、次に片づけるべき案件について、韓起と話し始めた。
子皮(罕虎)の族人は酒が好きで節度がなく、そのことを嫌った馬師氏(罕朔)との関係が悪化していた。
そして、本年二月に罕朔が罕魋(子皮の弟)を殺害するという事件が起きた。
罕氏は穆公の子・子罕(公子・喜)の子孫のことで、子罕は子展(公孫舎之)と公孫鉏の二人の息子がおり、公孫鉏は馬師に任命されたため、その子孫は馬師氏を名乗るようになった。
子展は罕虎(子皮)と罕魋の二人の息子が産まれ、弟の公孫鉏には罕朔が産まれた。
罕魋を殺した罕朔は晋に出奔した。
韓起は子産に罕朔の待遇について問うた。
「彼の待遇について述べたいことはあるでしょうか?」
「羈臣(寄生する臣。亡命した臣)は死から逃れて許容されただけで充分と言えましょう。それにも関わらず、官位を選ぶ必要があるでしょうか。卿が国を棄てれば、一階級落として大夫の位に従い、罪人(本国で罪を犯して出奔した者)はその罪の軽重によって位を落とすのが、古の制でございます。朔(罕朔)は我が国においては亜大夫で、その官は馬師でございました。罪を犯して逃走したため、貴国での待遇は執政の処置に任せます。死を逃れただけでも大きな恩恵であるため、我々が彼のために官位を求める必要はありません」
韓起は子産の適切な回答を評価し、罕朔を嬖大夫(下大夫)として遇した。
さて、帰国するかと子産が帰国の準備を始めると、そこに使者が訪れ、
「趙成様より、伝言です。帰国する前に我が屋敷でもてなしをしたいということです」
(おや、嫌われていたわけではなさそうだ)
特に断る理由もなかったため、彼は受け入れて、趙成の屋敷に出向いた。
「良く来てくださった」
歓迎の言葉の割には、趙成の表情は真顔のままである。
(表情が固定されているのだろうか)
「お招き感謝します」
「どうぞゆっくりなさってください」
趙成はそう言うと、家臣に食事や酒などを運ばせた。それから食事を互いに取ったのだが、
(終始、真顔のままだ)
そう子産が思っているとそこに一人の少年が現れた。
「おや、彼は?」
すると初めて、趙成は表情を変えた。
「鞅、何故ここにいる」
(鞅というと趙成殿のご子息か)
子産はやっと表情が変わった趙成と趙鞅を見る。
「父上、子産様がいらっしゃると聞き、会ってみたかったのです」
「汝のような孺子が何の用があるというのか」
「私は構いませんよ」
趙成が叱ろうとするところに子産がそう言うため、彼は口を閉じた。
「何か私に聞きたいことがあるのかい?」
「はい」
趙鞅は言った。
「子産様は、もし自分の政治が失敗であった時、どうなさいますか?」
「鞅」
趙成は咎めるような声を発すると趙鞅は縮こまる。
(この子は私が法の成文化を行ったことを知っているのか)
そう趙鞅の言葉はある意味では、子産の成文法への批難でもある。
「私は少なくとも自信を待たないまま政治を行いません」
「その自信が間違っていたとしてもですか?」
「ええ確かに自分の自信のあるものが本当は間違っているかもしれないということがあるでしょう」
本来、政治に間違いは許されない。何故ならば、その政治一つで国や民を苦しめる結果を生みかねないからだ。
「それでも政治を行うものは自信をもって、自らの政策を行わねばなりません。それが政治を行う者としての義務です」
「しかし」
「もし、自分の政策が間違っており、国と民を苦しめる結果しか残さないのであれば、その時は皆に頭を下げることになりましょう」
「謝罪しても許されるとは思えません」
「そうですね。謝罪しても許されることはなく、地位も失うかもしれない。それでも己の信念を持って、政策を行わなければならない時があるのです」
子産は趙鞅の目を真っすぐに見つめる。
「もしその覚悟が無いのであれば、政治などに携わるべきではない」
その言葉に趙鞅は思わず、黙り込む。
「そこまでだ。鞅、下がりなさい。孺子が相手にできる方ではない」
それを見た趙成はそう言って、趙鞅を下がらせた。
「愚息が失礼をしました」
「いえいえ、聡明なご子息をお持ちですね」
「親の贔屓目で見ても聡明ではありますが……同時に自信家でもある」
趙成はそう言って、目を細める。
「才能という原石は磨かなくとも輝く時があるものですが、願わくば、正しい形で輝いてもらいたいと思っております」
「大丈夫ですよ」
「感謝します」
その時、浮かべた趙成の表情は子を思う親の表情であった。
影が薄い趙成の影を濃くしたかった。




