章華台
紀元前535年
正月、斉が燕を討伐し、斉の景公は虢(燕国境)に駐軍した。
燕人が斉に伝えた。
「我が国は自らの罪を知りました。命に逆らうことはございません。先君の敝器(粗末な器物。謙遜しています)によって罪を謝し致します」
斉の大夫・公孫晳(前年、晏嬰が言った阿諛追従の臣の一人)が景公に言った。
「帰服を受けて退き、隙を見つけて再び動くことも、正しい選択でございます」
景公は賄賂を受け入れて講和することにした。もちろんこの講和を勧めた公孫晳の元にも燕は送っている。
二月、斉と燕が濡水の辺で盟を結んだ。
燕は燕姫(姫は姓)を景公に嫁がせ、瑤罋・玉櫝・斝耳といった宝物を贈った。斉軍は燕の簡公(または「恵公」)を燕に入れることなく、兵を還した。
その間に燕人は悼公を立てた。
燕の簡公はこの斉のやり方などに気落ちしたのか。この年、病に倒れて数年の間に死去した。
かつて楚の霊王が令尹だった頃、王旌(王の旗)を使って狩りに行くということがあった。
それを見た芋尹(官名)・無宇が旗を折って言った。
「一国に二君がいるのでは、誰が王命に堪えられましょうか」
諫言するためとはいえ、旗を折るとは剛毅な人である。
霊王は即位すると章華に宮殿を建てて亡命者を匿うようになった。
ある日、無宇の閽(門守)が罪を犯して章華宮に逃げた。無宇が捕まえようとしたが、有司(官員)が止めた
「王宮で人を捕まえるのは、大罪でございます」
それでも章華宮に入ろうとしたため、逆に無宇は捕らえられてしまい、霊王の前に連れて行かれた。この時、霊王は酒を飲もうとしていた。
無宇が霊王に言った。
「天子が経略(国内を経営)し、諸侯が正封する(封国を正す)のは、古からの制度でございます。封略(国境)の中には、君土(国君の土地)ではない場所はなく、土の毛(君土の草)を食べる者には、国君の臣下ではない者はおりません。だから『詩(小雅・北山)』には『普天の下に王土ではない場所はなく、国境の中に王臣ではない者はいない』と申すのです。天に十日(甲日から始まって癸日で終わる十干)があるように、人にも十等(十の階級)があるため、下は上に仕え、上は神を奉じるのです。王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は皁を臣とし、皁は輿を臣とし、輿は隸を臣とし、隸は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は台を臣とし(皁以下は労役に従事する身分が低い者のことで、全体を一括りで言ってしまえば、奴隷のこと)、馬には圉がおり、牛には牧がいて(圉と牧は馬牛を養う者のことで、十等には含まれない)、百事(各種の政務・事業)を処理できるのです。今回、有司が『王宮で人を捕まえるのは、大罪である』と言っておりましたが、罪を犯した者が王宮に逃げたのにも関わらず、王宮で捕えずどこで捕えろというのでしょうか。周の文王の法には『逃亡した者がいれば、大いに捜索せよ』とあります。だから天下を得ることができたのです。我々の先君・文王も『僕区の法(「僕」は「隠」、「区」は「匿」の意味)』を作り、こう申されました。『盗賊が盗んだ物を隠せば、盗賊と同罪である』このように正しい法を用いたがために、汝水まで領土を広げることができたのです。もしも有司に従えば、逃臣を捕えることができず、逃走する者をそのままにしていれば、陪台(上述した十等のうちの「台」。逃亡して捕まった奴隷)がいなくなることになります。これでは王事(王の政治)に欠陥が生まれてしまいます。昔、周の武王は紂王の罪を諸侯にこう宣言されました。『紂は天下の逃亡者の主であり、淵藪(淵は魚が集まる場所で、藪は獣が集まる場所のこと)となっている』だから人々は命をかけて戦ったのです。君王(霊王)は諸侯を求めているにも関わらず、この紂王を真似しようとしておられますが、正しいことではございません。もしも二文(周の文王と楚の文王)の法に則るのであれば、盗賊は逮捕されるべきです。盗賊には盗賊がいるべき場所がございます」
霊王は、
「汝の臣(章華宮に逃げた者)を捕えて帰ると良い。盗が寵を受けるのは相応しくない」
と言って無宇を釈放した。
霊王は章華に楼台を築き、諸侯を集めて落成の式典を開くことを考えた。派手なことの好きな人である。
大宰(太宰)・薳啓疆が、
「私は魯君を連れて来ることができます」
と言ったため、彼を魯に派遣した。薳啓疆は魯の昭公に言った。
「昔、貴国の先君・成公が我が先大夫・嬰斉にこう申されました。『私は先君の誼を忘れていないため、衡父(公衡)を楚に派遣して、その社稷を鎮撫し、汝の民を安定させよう』。嬰斉は蜀でこの命を受け、帰国してからもそれを失うことはなく、宗祧(宗廟)にこう報告しました」
実際には楚が衛を攻めてから魯を侵して蜀に駐軍したため、成公が蜀で会盟し、衡父を人質として楚に渡したが、後に衡父は逃げ帰っている。
「その後、我が先君・共王は首を伸ばして北を望み、毎日毎月、魯の朝見を待ち続け、そのまま代を重ねて今で四王(共王・康王・郟敖・霊王)に至っておりますが、嘉恵(恩恵)はまだ至らず、ただ襄公が我が国の葬(康王の葬礼)に臨んだだけでございました。当時は孤(孤児。康王の子・郟敖)と二三臣(楚の群臣)の心が大葬のために安定せず、社稷に対しても余裕がなかったため、君徳(魯の襄公の徳)襄公が楚に入朝したことに感謝する暇がありませんでした」
実際には霊王が郟敖を弑殺して王位を奪うという事件があったため、余裕はなかった。
「今、貴君が玉趾(国君の足)を動かして我が君と会見し、楚に福を授け、蜀の役(会盟)を継続し、嘉恵をもたらすのであれば、我が君は既に貺(恩恵)を受けたことになりますので、改めて蜀の会を望むことはございません(魯君が入朝すれば、人質はいりません)。我が君だけでなく、我が国の先君の鬼神も魯の恩恵を嘉し、頼ることになります。しかしもしも貴君が来ないのであれば、使臣は行期(会盟の日時)を問い、我が君自ら財幣をもって蜀の地に会いに行き、先君の貺(恩恵)を確認するでしょう」
実際はこなければ、出兵するという意味である。昭公は楚の出兵を恐れて朝見することにした。その出発前に夢で襄公が道神を祭る夢を見た。
因みに古代は遠出をする前に道神を祭る風習があった。
梓慎が夢の話を聞いて言った。
「主君は行くことはないだろう。襄公が楚に行く際には、夢で周公が道神を祭られました。今、(周公ではなく)襄公が道神を祭ったということは、行かない方がいいということでございます」
一方、子服恵伯は、
「行かれるだろう。先君(襄公)はそれまで楚に行たことがなかったために、周公が道神を祭って導いたのです。今回、襄公が主君のために道神を祭られたのは、襄公が既に楚に行ったためです。なぜ主公は行かないとうことがあるだろか」
三月、昭公は楚に出向いた。
鄭の簡公が師之梁(鄭の城門)で昭公を慰労した。仲孫貜(仲孫蔑の子。仲孫速の弟)が魯の介(副使)を勤めたが、鄭の慰労に対して儀礼に則って応えることができなかった。
魯の叔孫婼が斉に入って盟を結んだ。
四月、日食があった。晋の平公が士伯瑕に問うた。
「誰が日食に当たるのであろうか(誰が咎を受けるのだろうか。日蝕は天譴と考えられていた)?」
「魯と衛に凶がありましょう。衛は大きく、魯は小さいはずです」
「それはどういう意味か?」
「今回の日蝕は衛の地を去ってから魯の地に入りました」
古代においては天の星宿を十二分し、各国の位置にあてはめていた。今回の日蝕は、太陽が衛に当たる位置にいる時に始まり、魯に当たる位置に移ったようである。
「そのため衛に災害があり、魯もそれを受けるはずです。大咎は衛君(襄公)にあり、魯は上卿(季孫宿)が受けることになります」
平公は次にこう尋ねた。
「『詩(小雅・十月之交)』には『あの日に日蝕があったが、どこに害があるのだろうか』という句があるが、どういう意味か?」
「善政を行っていないことを詩は言っているのです。国が無政(善政が行われないこと)で、善人を用いなければ、日月の天災の下で自ら禍を招くことになります。政治とは慎重に行わなければならないものなのです。そのためには三つの事に注意が必要です。一つは人を選ぶこと。二つは民に因ること(民の利のために行動すること)。三つは時に従うことです」




