偽善という名の仮面
宋の寺人(宦官)・柳は宋の平公に寵用されていたが、太子・佐はこれを嫌っていた。
このことは周知の事実だったようで右師・華合比が太子の歓心を買うために、
「私が彼を殺しましょう」
と言ったが、寺人・柳に知られた。
自分の命が危ないと思った彼は北郭(北の外城)に穴を掘り、犠牲を殺して盟書を埋めてから、平公に報告した。
「華合比が亡人の族(亡命者の一族。陳に逃げた華臣とその一党)を招き、北郭で盟を結んでおりました」
平公が人を送って調べさせると、盟書が見つかったため激怒し、当時、華亥(華合比の弟)が右師の職を狙っていたため、華亥も寺人・柳と口裏を合わせ、
「以前からそのような噂を聞いていました」
と証言した。
平公は華合比を放逐することを決定し、華合比は衛に奔った。華亥が右師に任命された。
華亥が左師・向戌に会った時、彼が言った。
「汝夫(汝。軽視した言い方)も亡命することになるぞ。汝は自分の宗室(宗主)すら滅ぼしたのだからな。他の者にどう対するつもりであろうか。また、他の者は汝にどう対するであろうか。『詩(大雅・板)』にはこうある『宗主は石垣であり、それを壊してはならん。己を孤立させ、恐れを招いてはならん』汝は恐れるべきだ」
しかし、華亥は彼の忠告をしっかりと聞くことはなかった。華亥としては平公は自分を敵視していなければ、太子・佐は目ではないと考えていた。
だが、彼が思っている以上に太子・佐はそう単純な人物ではない。そのことを彼は理解できていなかった。
楚の公子・棄疾が晋に行った。前年、韓起が楚に来たためである。
しかし前年、韓起が楚に行った時、楚人は出迎えなかった。
そのため棄疾が晋の国境に来た時、晋の平公も棄疾を出迎えようとしなかった。すると叔向が諫めた。
「楚は辟(邪)であり、我々は衷(正)です。なぜ辟に倣うのでしょうか。『詩(小雅・角弓)』にはこうあります『汝(上)の教えに民は従わん』我々のやり方を守れば良く、人の辟を真似する必要はありません。『書(尚書・説命)』にはこうあります『聖人が準則になる』善人を準則とするべきなのに、人の辟を準則とするのですか。匹夫でも善を行えば、民はそれに倣うものです。国君ならなおさら善を行わなければなりません」
平公は諫言に喜び、公子・棄疾を出迎えた。
棄疾が晋に向かう際、鄭を通るため、鄭の罕虎(子皮)、公孫僑(子産)、游吉(子太叔)が鄭の簡公に従って、柤で慰労した。
棄疾は会見を断ったが、簡公が強く求めたため、棄疾はやっと同意した。
彼は楚王に謁見する際のような態度で簡公に接し、自分の馬八頭を簡公に贈った。子皮に会った時には上卿に対する礼を用いて馬六頭を贈り、子産には馬四頭を、子太叔には馬二頭を贈った。
また、棄疾は随行する自分の家臣に対しては、馬の放牧や柴刈りの禁止し、農地に入らないこと、樹を伐らないこと、野菜・果物を取らないこと、家屋を破壊しないこと、財を強要しないことを命じて、こう宣言した。
「命を犯す者がいたら、君子(官職がある者)は廃し、小人(雑役の者)は降す(階級を下げる)だろう」
棄疾一行は鄭国内に滞在している間、横暴な振る舞いはなかった。行きも帰りもこのようであった。
「楚は野蛮な人が多いのですが、彼はだいぶ違いますね」
子太叔がそう言うと子皮と子産の二人も頷く。
「周りの人よりも違うということを示すということはそれだけ、野心もあるということだ」
「それも他国でそれを見せつけることはそれを更にはっきりと示すことにつながります」
「王になるだろうか?」
「なるでしょう。偽善者でも悪人よりもマシなら人は偽善者を選びます」
鄭の三卿は棄疾が将来、王になることを望み、王になると思った。
徐の儀楚(徐の大夫。もしくは太子)が楚を聘問したが、楚の霊王は儀楚を捕えてしまった。
暫くして儀楚が逃走したため、霊王は徐の離反を恐れて薳洩に徐を討伐させた。
国の要人を何の罪も無く、捕らえてしまえば、離反を招きかねないことぐらいは考え付くだろうにと思いつつも薳洩は軍を動かした。
すると呉が徐を援ける動きを見せたため、楚の令尹・子蕩(薳罷)が呉を攻めるために豫章から兵を出し、乾谿に駐軍した。しかし呉軍が房鍾で楚軍を破り、宮厩尹・棄疾(闘韋龜の父)を捕えた。
子蕩は敗戦の責任を薳洩に被せて処刑してしまった。薳洩は何故だと叫びたかっただろう。
冬、魯の叔弓が聘問と敗戦の慰問のため楚に入った。
十一月,斉の景公が晋に高偃と共に行き、燕討伐の許可を求めた。
晋の大夫・士匄(または王正)が士鞅の相(補佐)となり、黄沿岸河で景公を迎え入れ、斉の出兵を許可した。
十二月、景公が燕へ討伐軍を派遣し、斉に出奔していた燕の簡公(または恵公)を帰国させようとした。
しかし晏嬰は、
「燕君は帰国できないだろう。燕には既に国君がおり、民にも二心がないのだ。我が君は貪婪で、左右は阿諛追従している者ばかりで大事を行うにも信がない。成功するはずはない」




