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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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成文法

 紀元前536年


 正月、杞の文公(ぶんこう)が死に、弟の・鬱(または「郁釐」)が継いだ。これを杞の平公(へいこう)という。

 

 魯は杞と対立していたが、同盟国と同じように弔問した。また、秦の景公(けいこう)の葬儀もこの頃、行われたため、魯も大夫を秦に送って景公の葬送に参加させた。

 

 三月、時代の転換点であり、多くの貴族が驚いた出来事が起きた。


 鄭の子産(しさん)が刑書を鼎に鋳たのである。これを「鋳刑書」といい、国民に法律の内容を示す意味を持ち、法の成文化を初めて彼によって行われたのである。


 成文化された刑法が国民に公開されるというこの行為は当時においては、有り得ない行為と言えた。何故ならば、刑法は民に教えないものと考えられていたからである。


 そのため知識人から多くの批判を招いた。

 

 それら批難を行った人物たちの筆頭は晋の叔向(しゅくきょう)である。彼は子産を譴責する書信を送った。


「以前、私はあなたに期待しておりましたが、今はがっかりしております。昔、先王は事の軽重によって罪を裁き、刑辟(刑法)を作ることはありませんでした。民が争心(刑法を盾にして争う心)をもつことを畏れたが故です。それでも犯罪を無くすことができなければ、義によって防ぎ、政(政令)によって正し、礼によって行動し、信によって守り、仁によって養いました。禄位を定めることで従う者を励まし、厳格果断な刑罰によって淫(放縦)の者を威圧し、それでも効果がないことを心配して、忠によって諭し、行(善行)によって奨励し、務(専門の知識)によって教え、和によって使い、敬(厳粛な態度)によって臨み、彊(威厳)によって対応し、剛(強い心)によって罪を断じたときたのです。更に、聖哲(聡明賢能)の上(卿。相)、明察の官(官吏)、忠信の長(郷長。地方官)、慈恵の師(教師)を求めましたので、民を使っても禍乱が起きることはありませんでした。しかしながら民が辟(法)を知れば、上を畏れることがなくなり、争心が生まれ、法書を根拠にし、徼幸(運に頼ること)によって刑から逃れようとすることでしょう。これでは民を治めることができません。夏朝は政治が乱れて(政令を犯す民が生まれたため)『禹刑』を作り、商朝は政治が乱れて『湯刑』を作り、周朝は政治が乱れて『九刑』を作ることになりました。これら三辟(三法)が生まれたのは、全て叔世(衰世。末期)のことでございます。今、あなたは鄭の相として封洫(農地の区分けする水溝)を作り、謗政(民に誹謗される政策。二年前の『丘賦』を指す)を立て、参辟(三種類の法。刑書の内容)を制し、刑書を鋳て、民を安定させようとしておりますが、困難ではありませんか。『詩』にはこうあります『文王(ぶんおう)の徳に倣って日々四方を安んずるのみである』また、こうもあります『文王にならい、万邦に信を作らん』このようであれば、辟(法)は必要ではないのです。民が争端(争いの元。ここでは刑法)を知れば、礼を棄てて刑書を盾に取るようになりましょう。錐刀の末(鼎に鋳られた刑書の文字。錐刀は文字を刻む工具)が一つ一つ争われていき、乱獄(法を犯す者)が増えて賄賂も横行するようになります。あなたが世を終わる時までに(子産が死ぬまでに)、鄭は敗亡するのではないでしょうか。『国が亡ぶ時は、法制が多くなるものだ』と言います。まさにこの事ではないでしょうか」


 叔向の言い分は当時の貴族層の代弁と言うべきであり、彼の言う三つの法ができたことも子産は大いに理解もしている。しかしながら彼はそれでも行うべきであるという覚悟と決意を持って、返事を書いた。


「あなたの言う通りではございます。しかしながら(きょう)(子産の名)は不才であるため、考えが子孫にまで及びません。今の世を救うだけです。その命(叔向の言)を受け入れることはできませんが、大恵(大恩)は忘れません」


 叔向は国民が法を知ることで狡猾になり、鄭は今後乱れることになるとしたが、子産は、今後乱れるかどうかは分からないが、今現在、法を明らかにする必要があると確信していた。


 春秋時代も終盤に入り、礼徳を基本にした道徳規範がますます廃れていた。それによって階級制度も崩壊しつつあり、礼徳といった抽象的なものではなく、法という具体的な規則で国を治める必要があると子産は考えたのである。


 叔向らの意見は一見は下の者たちのことを考え、秩序を守るために下の者が上の者に従うだけの世界を願っている。それは同時に下の者が上の者を凌駕しつつあるという証拠を自らの言葉で語ってしまっているとも取れる。


(民は馬鹿ではない。確かに彼らに政治を語らせようとすれば、言葉にならない「漠然としたもの」を並べるだけかもしれない。しかしながらその「漠然としたもの」を彼らは語りつつあるのだ)


 それは何ら力を持ってはいない。しかし、やがてそれは力を持ち初め、力は形を変え矛となって自分たちに突き出してくるだろう。


(彼らに納得が必要なのだ。これは正しく、これは悪いことなのだと彼らが理解し、納得することで、その「漠然としたもの」は力を持つ前に消えて行く。もしこれによって法に対してそれが正しいのか間違っているのかを争うような者も現れて行くだろう。しかし、それは国を思い、自分たちの生活を変えて行きたいという善の方向への道である)


 もっとも恐ろしいのは、民が「漠然としたもの」が力を持ち、それに怒りを纏い始めることだ。かつて王に言葉を封じられても目で会話を行い、王を追放してみせたこともあるではないか。


「漠然としたもの」に善も悪もない。だからこそ恐ろしい。それによって時代が動かされる時、人は最も残酷になる時であり、正邪の観念は逆転現象を起こす。


(後世において最大の汚点と罵られようとも、国と民のためにも私は自らの信念を貫く)


 子産の成文法は孔子が後に晋が同じように成文法を作り、鼎に鋳て国民に公布した時に晋を諌めたこともあり、儒教からの評価も低く、無為自然を説く道教からも批難された。


 そのため子産は意外にも中国の歴史家からの評価は低い。


 しかしながらその後も、法令の明確化は各国に取り入れられ、戦国時代の変法改革(秦)につながっていくことになるため、彼は法家の始祖と捉えることもある。


 彼が時代の先達者にして、偉大な人物であったことは確かである。







 

 晋の士伯瑕しはくかが言った。


「火(大火星)が見えた。鄭で火災が起きるだろう。火(大火星)が現れる前に(通常なら五月に大火星が現れる。この時はまだ三月)、火を使って刑器を鋳た(鼎の鋳造には火を使う)。辟(法)をめぐって争論を招くことになるはずだ。火(大火星)がこれを象徴しているのだとすれば、火災が起きるとしか考えられない」


 これも子産の成文法への批難の一つだが、実際に六月に鄭で火災が起こっている。


 夏、魯の季孫宿きそんしゅくが晋に入った。魯が莒の地を領有したのに晋が討伐しなかったためのお礼である。そう考えるとあの行為は魯でも問題があるよね、ぐらいの認識はあったようである。

 

 晋の平公(へいこう)が季孫宿のために享(宴)を開き、籩(食器。料理の意味)を通常の礼よりも増やした。すると季孫宿は退出し、行人(賓客の対応をする官)を通じてこう伝えた。


「小国が大国に仕える時、討伐を免れることができれば、他に貺(賞賜)を求めず、貺を得るとしても三献(享宴の礼の一種)を越えてはならないものでございます。今、豆(食器。豆は汁物を容れ、籩は乾食を置きました)が加えられましたが、下臣には度が過ぎたことであると考えます」

 

 韓起かんきが言った。


「我が君はあなたに喜んでほしいのです」

 

「我が君にとっても過ぎたことであるにも関わらず、下臣にとってはなおさらのこと。国君の隸(臣下)に貺が加えられるとは、聞いたことがございません」

 

 季孫宿はかたくなに拒否し、増やした料理を除いてから享宴に参加した。晋人は季孫宿が礼に通じていると称賛し、厚い礼物を贈った。

 

 

 

 

 



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