蹶由
鄭の子皮(罕虎)が斉に行き、子尾の女を娶った(恐らく再婚)。
彼が斉に訪れたことにとても喜んだ晏嬰は度々子皮に会いに行っていた。この人がこれほど嬉しそうに人と接する姿を見たことがないため、陳無宇がその理由を聞くと、晏嬰は、
「彼は善人を用いることができる民の主と言える人物だからです」
と答えた。彼の言う善人とは子産のことで、彼に政治を任せていることを称えている。だが、陳無宇は違う感想を抱いた。
(私は子皮殿とは違うと言いたいのか)
晏嬰の言葉は自分への遠まわしの批難であると彼は受け取ったのである。
(やはり、この男は好きになれん)
人の感情というものは難しいものである
夏、莒の牟夷が牟婁、防、茲を挙げて魯に出奔した。魯はこれを受け入れた。
莒がこれを晋に訴えると、晋の平公は朝見に来ていた魯の昭公を拘留しようとした。しかし士鞅が反対した。
「いけません。朝見に来た者を捕えれば、『誘(誘い出して捕えること)』となります。軍を使わず『誘』によって討伐を成功させてしまうのは、『惰(怠惰。怠慢)』でございます。盟主でありながらこの二つを犯すのは、相応しくありません。魯君を帰らせて、機会があったら群を用いて討伐するべきです」
平公は昭公を帰らせた。
七月、莒は晋があてにならないため、軍を動かし、魯に侵攻したが、自軍の防備を怠った。
莒軍が陣を構える前に魯は困った時の叔弓に攻撃を仕掛けさせ、蚡泉(または「賁泉」「濆泉」。魯と莒の国境)で莒軍を破った。
十月、楚の霊王が蔡の霊公、陳の哀公、許の悼公、頓君、沈君、徐人および東夷を率いて棘・櫟・麻の役の報復として呉を攻撃した。
薳射が繁揚(繁陽。繁水の北)の軍を率いて夏汭で霊王と合流した。越の大夫・常寿過(常寿が氏)も軍を率いて瑣(楚地)で楚軍と合流した。
これを受け、呉も兵を動員しました。
それを聞いた薳啓疆が兵を率いて迎撃したが、防備が間に合わず、鵲岸(長江北岸)で呉軍に粉砕されてしまった。
急報を受けた霊王は馹(駅車)で羅汭(汨羅)に急行した。
呉王・夷末が弟・蹶由(または「蹶融」)に楚軍を慰労させた。しかし霊王は蹶由を捕え、殺してその血を祭祀用の鼓に使おうとした。
霊王が使者を送って蹶由に聞いた。
「汝がここに来ることを卜った時、吉と出たかね?」
蹶由がこう答えた。
「吉です。我が君は貴君が我が国で治兵しようとしている(呉に兵を用いようとしている)と聞き、守亀(天子や諸侯が卜に使う亀)で卜い、こう申されました『私は急いで人を送って犒師(軍を慰労すること)し、楚王の怒りの程度を確認して備えを設けようと思う。吉凶を卜ってもらいたい』その結果、亀兆は『吉』と出たため、我が君は『勝利が予知できた』と申されました。もしも貴君が喜んで使臣を迎え入れられていれば、我が国は油断して危険を忘れ、敗亡まで日がなくなっていたでしょう。しかし今、貴君は震電のように激しくお怒りになられ、使臣を捕えて虐げ、祭鼓に使おうとしております。そのおかげで呉は備えが必要であることを知りました。我が国は羸弱であるものの、あらかじめ城壁の修築や兵器の整備を完了させることができれば、楚軍を止めることができます。患難にも平安にも備えがあれば吉です。そもそも呉の社稷を卜ったのであり、一人の吉凶を卜ったのではありません。使臣が捕えられてその血で軍鼓を祭り、そのおかげで我が国が備えの必要を知り、不虞(不測の危難)から守ることができるというのであれば、これ以上の吉はありません」
己の職務を果たし、国が備えを行う時間も稼げた。自分の死ぬことなどは、国が保つことができるのであれば、小さなことである。
「また、国の守亀に卜えないことはございません。しかし臧否(吉凶)がどこにあるのかは、誰にもわかりません。城濮の兆は邲で実現しました(城濮の戦いの前に楚が卜ったところ、吉と出た。しかし楚は城濮で敗れ、邲で勝った)。今回の出使においても、必ず卜の結果が実現するでしょう」
例えここで自分の死という凶が起きたとしても、呉が勝って吉が実現することになるだろう。そんな彼の言葉を受けて、霊王は彼を殺すのをやめた。
楚軍が羅汭を渡った。沈尹(沈県の令)・赤が霊王に合流し、萊山に駐軍した。薳射が繁揚の軍を率いて先に南懐に入り、楚の大軍がそれに続いて汝清(長江と淮水の間)に至った。しかしながら呉には既に備えがあったため、進攻できなかった。
そのため霊王は坻箕之山で閲兵して武威を示してから、功無く引き上げた。蹶由も楚に連れて行かれることになった。
霊王は呉の攻撃に備えるため、沈尹・射(沈尹・赤と同一人物か、尹が二人いたのかは不明)を巣で待機させ、薳啓疆を雩婁で待機させた。
この頃、秦の景公が死に、子の哀公(または「㻫公」)が継いだ。これを知った晋に出奔していた后子が秦に帰国した。
この年、孔子が学問を志した。儒教の始祖へ至る一歩を踏む出したのである。そんな彼を驚かせることが翌年、起ころうとはこの時考えもしなかっただろう。




