晋楚の婚姻
楚の大夫・屈申(または「屈伸」)が呉と通じたため、楚の霊王に処刑された。
その後、屈生(屈建)が莫敖に任命された。
霊王は屈生と令尹・子蕩に命じて婚姻の約束を結んだ晋へ晋女を迎えに行かせた。子蕩一行が鄭に至ると、鄭の簡公が氾で子蕩を、菟氏で屈生を慰労しました。
彼らが晋に至ると晋の平公が自ら娘を邢丘まで送り、子産が簡公の相(補佐)となり、邢丘で平公と会見した。
魯の昭公も晋に入り、郊労(大国が小国の使節を郊外で労い、国に迎え入れる儀式)から贈賄(大国から小国に礼物を送る儀式)まで、昭公は礼に則って行動した。
平公は女斉に、
「魯君は礼を善く理解している」
と言うと彼は逆に、
「魯君は礼を理解しているとは申せません」
と答えた。平公は疑問に思い、聞いた。
「何故、そう言えるのか。郊労から贈賄まで、魯君に無礼はなかったではないか」
「それは儀(儀式。儀礼)というものであり、礼ではございません。礼とは、国を守り、政令を行きとどかせ、民を失わないためにあるものでございます。今、魯の政令は家(卿大夫)にあり、取り戻すことができません。魯には子家羈(字は駒。荘公の玄孫)が居るにも関わらず、用いることができません。大国の盟を犯して小国を虐げ(莒を攻めて鄆を取った件)、人の難を利としながらも(莒の乱を利用して鄫を取った件)、自分の難を知りません。公室を四分したため、民は他(公室以外の者。三桓)に養われております。民心に公はなく、国君は将来を考えず、国君でありながら、禍難が近づいていることに気づかず、その地位を心配しておりません。礼の根本はここ(国を守ること。政権を保つこと。民心を失わないこと)にあるというのに、小さな儀を学ぶことに必死では、礼を理解するにはほど遠いと言わざるをえません」
晋の韓起が晋女を楚に送り、叔向が介(副使)になった。鄭の子皮と子大叔が索氏(地名)で晋の一行を労った。
游吉が叔向に言った。
「楚王の汰侈(驕慢)は甚だしいため、注意なさった方がよろしいと思います」
「汰侈が甚だしければ、自身に禍を招きます。他の人に及ぼすことはできません。私は私の幣帛(財礼)を献上し(与えられた任務を全うし)、威儀を慎み、信を守り、礼によって行動し、恭敬によって始め、終わりを考慮し、全ての事においてこれを繰り返すだけのこと。従順でも儀を失わず(従順な態度が度を越さず)、恭敬でも威を失わず、訓辞(先人の教え)によって導かれ、旧法(故事。旧礼)に則って行動し、先王の事績を考え、二国(晋・楚)の事(強弱・利害)を量れば、相手が汰侈であろうとも私をどうすることもできません」
韓起一行が楚に入った。
霊王が諸大夫を朝廷に集めて言った。
「晋は我が国の仇敵である。もしも我々が志を得ることができるのであれば、他の事を考える必要はなく、此度、我が国に来たのは、上卿(韓起)と上大夫(叔向)である。韓起を閽(門の守衛)とし、羊舌肸(叔向)を司宮(宮内の官。宦官)にして晋を辱めれば、私の志を満足できるだろう」
この機会を活かして晋に対して報復してやろうというとんでもない考えである。しかも婚姻を結ぼうという時にこれをやろうというのであるのだから霊王の価値観はズレているとしか言いようがない。
大夫が黙っている中、薳啓疆が発言した。
「我々に備えがあるのであれば、問題はございません。匹夫を辱める時でも、匹夫には備えがあるもので、国を辱めるというのであればなおさらです。だから聖王は礼を行うことに務め、人を辱めず、朝聘(朝見と聘問)では珪(玉器)があり、享(宴)には璋(礼器)があり、小国には述職(小国が大国を朝見すること)の決まりがあり、大国には巡功(大国が小国を巡ること)の決まりがあるのです。机(几。座席の肘置き)があっても寄りかからず、爵(酒器)が満たされていても先に飲まず、宴には好貨(友好の礼物)があり、飧(食事)には鼎が用意され(複数の美食が用意され)、国境に入れば郊労を行い、出る際には贈賄(礼物を送ること)するのが、最上の礼と申します。国家の敗亡とは道を失うことから始まり、禍乱によって招かれるものでございます。城濮の役で勝った晋は楚に備えなかったために、邲で敗れたのです。しかし、邲の役で勝った楚は晋に備えなかったために鄢で敗れることになりました。鄢の役以来、晋は備えを失わず、しかも礼を加え、和睦を重んじております。そのため楚は報復の機会がなく、親善を求めたのです。既に姻親の関係を得たにも関わらず、それを辱めようとすれば、寇讎を招くことになります。どのように防備し、誰がその重責を負うとお考えなのでしょうか。もし重責を負う人がいるのであれば、辱めても問題はございません。しかしながらもしもいないのであれば、王はよくお考えになられるべきです。晋が王に仕える姿は、私が思うには充分満足できるものです。諸侯を求めれば集まり、婚姻を求めれば娘を進め、晋君自ら送り出し、上卿と上大夫が我が国まで来たのです。それなのにこれを辱めようというのであれば、王には備えが必要です。そうでなければどうなるとお思いでしょうか。韓起の下には趙成(趙武の子)、中行呉(荀呉。荀偃の子)、魏舒、士鞅、知盈(五卿。三軍の将佐)がおり、羊舌肸(叔向)の下には祁午、張趯、籍談、女斉、梁丙、張骼、輔躒、苗賁皇(邲の役の人とは別人であると思われる)(七人とも大夫)がおり、皆、諸侯の選(どこの国に行っても選ばれるべき良臣)と申せます。韓襄(韓無忌の子)が公族大夫となり、韓須(韓起の子。公族大夫)が命を受けて使臣になりました(斉に行った)。箕襄、邢帯、叔禽、叔椒、子羽(韓氏の一族)は全て大家であり、韓氏には七邑の賦(収入)があり、どの邑も大県と言えます。羊舌の四族(伯華・叔向・叔魚・叔虎兄弟)も皆、強家です。晋がもし韓起と楊肸(叔向。羊舌肸は楊を采邑としたため、楊氏を名乗った)を失えば、五卿・八大夫が韓須と楊石(叔向の子)を助け、十家(実際は韓氏七族と羊舌氏四族なので十一家です)九県(韓氏は七邑をもち、羊舌氏は二邑を治めていた)と長轂(兵車)九百乗を率い、その他四十県の兵車四千乗が国を守り、武怒を奮って大恥に報いようとするでしょう。伯華(叔向の兄)が策謀を行い、中行伯(中行呉)と魏舒が指揮をとれば、失敗はありません。王が親善を怨恨に変え、礼を無視して寇(敵)を招き、しかも必要な防備をせず、群臣を敵の捕虜にさせることで君心を満足させるのであれば、悪いことではありません」
「私の誤りだ。大夫がこれ以上言う必要はない」
流石の霊王も彼の言葉には理解を示し、韓起を礼遇した。
しかし、懲りない彼は叔向に対して、難しい質問をして困らせようとした。しかし博学な叔向は難なく答えたため、敵わないと知り、叔向にも厚く礼を用いた。
韓起が帰国する際、簡公が圉で慰労しようとしたが、国君の慰労を受けるのは礼から外れると考え、敢えて会うことはなかった。




