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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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魯の三軍廃止

 魯の昭公しょうこう杜洩とせつ叔孫豹しゅくそんひょうの葬儀を命じた。


(あの男の葬儀などさせるものか)


 豎牛じゅぎゅう叔仲帯しゅくちゅうたい南遺なんい(季氏の家臣)に賄賂を贈り、葬儀の邪魔を行おうとした。


 杜洩が路車(周王が叔孫豹に下賜した車)で葬送を行い、卿礼を用いようとすると、南遺が季孫宿きそんしゅくに言った。


「叔孫は路車に乗ったことがございません。なぜ葬礼で用いるのでしょうか。そもそも、冢卿(正卿・季孫宿)でも路車を使わないのに、介卿(副卿)がそれを使うのは、相応しくないのではありませんか?」

 

 季孫宿は、


「その通りだ」


 と言うと、杜洩に路車を用いないように命じた。しかし杜洩はこう反論した。


「主は朝廷で命を受けて王を聘問し、王は旧勳を思われになり、路車を下賜されました。復命後、路車を国君に献上致しましたが、国君は王命に逆らうことができず、再び主に下賜したのでございます。それは三官によって記録されております。あなた様は司徒として姓名を記録し(群臣の位号を定め)、主は司馬として工正と共に服(車服)を記録し、孟孫は司空として勳功を記録してきました。今、主が死んだにも関わらずそれを使わないのは、君命を棄てることになります。公府に書かれているにも関わらず、これを使わないのは、三官を廃すことになります。命服(国君から与えられた車服)を活きている間に敢えて使うことができず、死んでからもまた使ってはならないと申されるのであれば、賞賜に何の意味があるというのでしょうか」


 彼の反論によって翌年、路車が叔孫豹の副葬に使われた。

 

 豎牛としては舌打ちしたくなる事態であった。彼は叔孫豹が積み上げてきたものを全て破壊したいのである。

 

 そんな中、季孫宿が中軍を廃することを考え始めたことを知ると、豎牛は彼の元に出向き、


「叔孫豹は以前から中軍を除きたいと考えておりました」


 笑みを浮かべながら進言した。







 

 紀元前537年

 

 季孫宿が中軍を廃すことを考え、施氏(公子・施父しほの一族)の家で諸大夫と謀議し、臧氏(公子・ぞうの一族)の家で決定された。


 臧氏は司寇を勤めており、当時は兵獄同制(軍と獄を共に治めること)だったため、決定の場所に臧氏の家が選ばれたのである。

 

 正月、魯が正式に中軍を廃した。左右二郡になった。


 今回、中軍が廃止されることになり、郊遂(国都郊外)が四分された。季氏がそのうちの二つを、孟孫氏と叔孫氏がそれぞれ一つを管轄下に置くことになった。

 

 また、二軍のうち左軍は季孫氏が、右軍は孟孫氏が統率し、叔孫氏はこれとは別の兵を擁すことになった。

 

 全ての民が自由民となり、軍賦(兵役と軍事品の提供)か田賦の義務が課された。それらは三家が徴収し、三家から収入の一部を公室に納れることにした。これにより、公室が直接管理する民はいなくなり、ますます三桓の権力が大きくなったことになる。

 

 その後、叔孫豹の葬儀が行われ、季孫宿が杜洩に書信を送り、叔孫豹の棺に向かってこう報告させた。


「あなたが中軍を廃したいと思っていたそうですので、既に廃しました。よってここに報告致します」

 

 しかし杜洩は、


「主は中軍の廃止に反対されておられたために、僖閎(僖公廟の大門)で盟を結び、五父の衢(大通の名)で呪詛を行った」


 と言い、書信を投げ捨てて士(部下)と共に哀哭した。

 

 叔仲帯しゅくちゅうたいが季孫宿に言った。


「私は子叔孫(叔孫氏の主。叔孫豹)から『寿命で死ななかった者は(霊柩を)西門から出せ』と命じられております」

 

 この発言からわかるように叔仲帯は叔孫豹が竪牛によって餓死させられたことを知っていた。そのため叔孫豹の命令を守って霊柩を西門から墳墓に運ぼうとしたのである。

 

 季孫宿がこれを杜洩に命じると、彼はこう言って反対した。


「卿の葬送は朝門(正門。南門)から出すのが魯の礼でございます。あなた様は国政を行い、今までの礼を変えてもいないにも関わらず、今回は勝手に変更するのでしょうか。群臣は死を畏れることがあっても、従うことはございません」

 

 杜洩は叔孫豹の埋葬を終えると、季孫氏の難を恐れて楚に出奔した。









 

 叔孫豹の子・仲壬ちゅうじんが斉から魯に帰ってきた。


 季孫宿はこれを知ると彼に叔孫氏を継がせようとしたが、南遺が反対した。


「叔孫氏が厚くなれば季孫氏が薄くなってしまいます。彼等の家に乱が起きている今、あなた様が関与する必要はございません」

 

 南遺は国人(城邑に住む人)を送って豎牛を助け、大庫の庭(国庫の前庭。もしくは「大庭氏の庫」。大庭氏は古代の国名で、曲阜城内に廃墟があり、魯はそこに倉庫を建てていた)で仲壬を襲わせた。


 司宮(内官。宦官)が射た矢が仲壬の目に当たり、仲壬は死んだ。

 

 豎牛は東境の三十邑をお礼として南遺に贈った。

 

(これで私の邪魔をする者はいなくなった)

 

 豎牛は叔孫婼しゅくそんしゃくに叔孫氏を継がせた。彼が庶子で強い後ろ盾もないというのが、彼に継がせた理由である。しかし、叔孫婼は牛を捌く牛刀を有していたというべきだろうか。

 

 叔孫婼は家臣たちを集めこう言った。


「豎牛は叔孫氏に禍をもたらし、大いに秩序を乱した。適(嫡子)を殺しながらも庶(庶子)を立て、しかも邑を分裂させて罪から逃れようとしている(南遺に邑を与えて協力を求めている)。これ以上大きな罪はない。速やかに誅殺すべきである」


 彼の言葉に家臣たちも一斉に豎牛に抵抗を始めた。


(これで死んでたまるか)

 

 豎牛は斉に奔った。しかし、そこには孟丙もうへいと仲壬の子が塞関(魯と斉の国境)の外(斉領)におり、彼を待ち伏せしていた。


「父上の仇」


 彼らは竪牛に襲い掛かり、豎牛を捕らえた。


(ちっここまでか……まあ良い。一番やりたいことはやった。俺は俺の思うがままに生きた。俺の人生に何らの後悔は無い)


 豎牛はそう嘯きながらその首を切り落とされた。その後、その首は寧風(斉地)の棘の上に投げ捨てられた。


 かつて叔孫豹が産まれた時、父の叔孫得臣しゅくそんとくしんは『周易』に基づいて卜筮を行った。その結果、「明夷」が「謙」に変わるという卦が出た。これを楚丘に見せると、楚丘はこう言った。


「この子は将来、出奔することになりますが、帰国してあなたの祭祀を行うことになります。但しその際、讒人(悪人)を連れて帰国します。その名は牛といい、その者によって最後は餓死することになります」

 

 全て楚丘の予言通りであったというべきだろうか。













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