竪牛
かつて魯の叔孫得臣は叔孫僑如と叔孫豹を産んだ。得臣の後、僑如が叔孫氏を継いだが、成公の母・穆姜と私通し、魯の政権を握ろうとしたが、失敗したため、斉に出奔した。
僑如が斉に奔る数年前に、叔孫豹は既に斉に移っていた。具体的にいつの事かはわからないが、兄との確執によるものである。
叔孫豹が斉に向かう途中の庚宗(魯地)まで来た時、一人の婦人に遭った。彼は婦人に食事と宿泊を求め、やがて関係を持つようになった。しかし、叔孫豹は斉に行くために去らなければならなくなり、婦人は泣いて送り出した。
叔孫豹は斉に入ると国氏と結婚し、孟丙と仲壬が産まれた。
そんなある日、夢の中で天が落ちて来て、叔孫豹を圧迫した。押し潰されそうになった彼はふと、後ろを見ると、一人の男が立っていた。
その男は色黒、上僂(極度の猫背)、深目(目が深い)、豭喙(豚のように突き出た口)という様相であった。そんな男に向かって叔孫豹は叫んだ。
「牛、私を助けよ」
するとその男は天を持ち挙げて叔孫豹を助けた。
翌朝、叔孫豹は全ての徒(従者)を集めたが、夢で見たような男はいなかった。しかし、その夢に何かを感じた叔孫豹は、
「覚えておこう」
と誓った。
やがて兄の叔孫僑如が斉に逃げてきた。
叔孫豹が食物を届けると、僑如はこう言った。
「魯は先子(叔孫氏の先人)の功績に免じて我が宗族を継承させるだろう。私が出奔したから汝が招かれることになる。汝はそうなった時、どうするのか?」
叔孫豹は、
「久しく帰国を願っていました」
と答えた。
魯が叔孫豹を呼び戻すと、叔孫豹は僑如に伝えずに帰国した。僑如が斉でも声孟子と私通したため、呆れて既に関係を絶っていたのである。
叔孫豹は魯に帰って卿に立てられた。すると庚宗の婦人が雉を献上しに来た。婦人が雉を献上するというのは子ができたことを意味する。
叔孫豹が子供について聞くと、婦人は、
「私の子は既に成長ししております。自分で雉を持って私についてくることができます」
と言った。そこで叔孫豹が子供を招くと、以前、夢で見た男にそっくりであった。子供に名を聞く前に、
「牛よ」
と呼びかけると、子供は、
「はい」
と応えた。叔孫豹は全ての徒(従者)に牛を紹介し、豎(小臣。成人前の家臣)にした。そのため彼を竪牛と呼ばれるようになった。
竪牛は叔孫豹に寵愛されるようになり、成長してから家政を掌るようになった。
叔孫豹が斉にいた時、斉の大夫・公孫明(子明)と親しくなったが、叔孫豹が帰国してから国姜(叔孫豹の妻・国氏の娘)が公孫明と再婚したため、叔孫豹は怒って二人の子(孟丙と仲壬)を斉に放置してしまった。
二人は成長してからやっと魯に招かれることになるのだが、このこともあり、息子でありながらも二人に対し、叔孫豹はそれほど愛情を示さなかった。
やがて、叔孫豹が丘蕕(地名)で狩りを行っている途中で、体調を崩した。彼は寵愛する豎牛を信頼して身の回りの世話を彼に任せるようになった。
豎牛はこの状況に笑みを浮かべる。
(この時がやっときた)
彼は叔孫の家を自分のものにしようと考えていた。そのため叔孫豹にとって良い臣下を演じてきた。彼は孟丙に自分への協力を誓わせようとした。しかし孟丙は拒否した。
(ふん、私に協力しないのであれば、消すしかない)
そのように考えていると、病床の叔孫豹が孟丙のために鍾を作らせ、こう言った。
「汝は諸大夫との交際の場に出たことがない。そのため大夫を招いて享(宴)を開き、鐘を落成させよう」
孟丙が公式の場所で紹介されるということは、叔孫氏の後継者になるということである。
それを受けて、孟丙は享礼の準備を済ませると、豎牛を送って叔孫豹に享礼の日をうがかった。竪牛は叔孫豹の部屋に入ったが、何の報告もせず退出して孟丙に適当な日を教えた。
「承知しました」
孟丙はそう言うのを豎牛はにやりと笑った。
その日、賓客が集まったため、孟丙が鐘を敲いた。病の叔孫豹は部屋で鐘の音を聞きた。すると竪牛が言った。
「孟丙様の所に北の婦人(国姜。孟丙の母)の客(公孫明)が来ております(公孫明に最初の鐘の音を聞かせています)」
外で享礼が行われているとは知らない叔孫豹は、怒って外に出ようとした。それを竪牛が叔孫豹を止めた。
「落ち着いて下さいませ、しかしながら大変許せない行為です。もし命があれば、私が行いましょう」
冷静な判断力が低下している叔孫豹は、彼に命じた。
「孟丙を斬れ」
「承知しました」
竪牛は賓客が帰ってから、叔孫豹は人を送って孟丙を捕まえ、殺した。
次に竪牛は仲壬にも協力を誓わせようとしたが、仲壬も拒否した。
(頭の悪いやつだ。私を敵に回した怖さを見せてやる)
ある日、仲壬が昭公の御者・萊書と公宮で遊び、昭公が仲壬に玉環を下賜した。仲壬は竪牛に玉環を渡して叔孫豹に報告させた。しかし竪牛は叔孫豹に玉環のことを話さなかった。
彼は叔孫豹の部屋から出ると叔孫豹の指示と称して仲壬に玉環をつけさせた。それを見届けて竪牛は叔孫豹に元に戻り言った。
「仲壬様を国君に会わせては、如何でしょうか?」
国君に紹介するというのは、後継者に立てることを意味する。
叔孫豹が、
「なぜだ?」
と聞くと、竪牛は悲しそうな表情を浮かべ、
「国君に会うように命じなくとも、仲壬様は既に自分で会いに行かれました。主公が下賜した環をつけておられます。そのため改めて主が仲壬を連れて正式に国君を謁見するべきではないかと考えまして、進言させていただきました」
叔孫豹は怒って仲壬を追放するように命じ、仲壬は母のいる斉に奔った。
二人を排除して、数日後、叔孫豹の病は悪化していっていた。そのため後継者を決める必要性が出てきた。叔孫豹は仲壬を呼び戻すように命じたのだが、竪牛は命に応じつつも仲壬を招かなかった。
仲壬を呼び戻しては、自分の悪事がばれてしまう。それはあってはならないのである。
(そろそろこの男も死んでもらわねばならないか)
竪牛は彼の元に食事を減らすようになった。
後日、叔孫氏の家宰・杜洩が叔孫豹に会うと、叔孫豹は飢渇を訴えた。その頃には、叔孫豹も竪牛の姦悪に気がついていたため、杜洩に戈を与えて竪牛を罰するように命じた。
しかし杜洩はこう言った。
「主が彼を求めたがために彼が来たのです。なぜまた除こうとするのでしょうか」
杜洩は最早、竪牛の排除は難しいと考えていたのである。
その後、豎牛は彼が叔孫豹に会ったことを知った。
(あれに会わせないようにせねばならない)
今回は問題はなかったが、そのうち仕掛けてくる可能性があるのである。
「主は疾病のため、誰にも会いたくない」
そこで彼はこのように発表し、食事を持って来た者には食物を廂(正室の左右の部屋)に置いて帰らせ、その後、食物を棄ててから、空になった食器を片づけさせるなど徹底的に叔孫豹に会わせないようにした。
十二月、叔孫豹は餓死した。季礼にも認められた魯の名臣の死とは思えない最後であった。
竪牛は叔孫婼(叔孫豹の庶子)を後嗣に立てて、自ら相(補佐)になった。