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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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愚者、暴君に一矢報いる

 七月、楚の霊王れいおうが蔡の霊公れいこう、陳の哀公あいこう、許の悼公とうこう、頓君、胡君、沈君と淮夷を率いて呉に侵攻した。


 申の会に参加していた宋の大子・と鄭の簡公かんこうは先に帰国し、宋の華費遂かひすいと鄭の大夫が従軍した。

 

 霊王は屈申くつしん屈蕩くつとうの子)に朱方を包囲させた。

 

 八月、朱方が陥落した。斉から亡命していた慶封けいほうが捕えられ、その家族は皆殺しにされた。

 

 霊王は慶封が斉で行ったことを知っており、彼を晒し者にしてから処刑しようとした。それを伍挙ごきょが止めた。


「欠点がない者が、人を戮(処刑)することができると申します。慶封は君命に逆らってここに来た男です。戮に黙って従うとは思えません。醜聞が諸侯に広まるかもしれないにも関わらず、なぜそうするのでしょうか?」

 

 霊王は諫言を聞かず、慶封に斧鉞(刑具)を背負わせ、諸侯の陣営を歩きまわらせてこう言うように命じた。


「斉の慶封のようになってはならない。彼はその君(斉の荘公そうこう)を弑殺し、孤児(まだ若い景公けいこう)を弱め(国君の権力を奪い)、大夫と盟した」


  実際に荘公を殺したのは崔杼さいちょなのだが、斉の大夫らに対して崔杼と慶封に協力するように強制した慶封もその一党として同罪とみなされたのである。


 ところが慶封はこう言った。


「楚の共王きょうおうの庶子・(霊王)のようになってはならない。彼はその君であり、兄(康王こうおう)の子にあたる麇(郟敖)を弑殺し、その地位を奪い、諸侯と盟した」

 

 不快になった霊王は人を送ってすぐに処刑させた。


 慶封は悪人であり、愚者である。その愚者が暴君に一矢報いて見せた。

 

 霊王が諸侯を率いて頼(または「厲」)を滅ぼした。

 

 頼君は両手を後ろで縛って口に璧玉をくわえ(降伏の姿)、士は袒して(上半身を裸にして)櫬(棺)をかつぎ、楚の中軍に入った。

 

 霊王が伍挙にどう対応するべきか聞くと、彼はこう答えた。


成王せいおうが許を攻略した際、同じように許の僖公きこうもこのようなことを行ったと聞いております。成王は自ら縄を解き、璧を受け取ってから櫬を焼き棄てました」

 

 霊王はこれに従い、頼君を受け入れた。頼は鄢に遷された。続けて霊王は許を頼に遷そうとし、闘韋龜(子文しぶんの玄孫)と公子・棄疾きしつに命じて許のために築城させた。

 

 その後、彼は軍を率いて帰還した。

 

 申無宇しんむうがこれを知るとため息をつき言った。


「楚の禍はここから始まるだろう。諸侯を召したら集まり、他国を討伐すれば攻略し、辺境に築城しても諸侯は誰も反対することがなかった。王の心に背く者がなくなって、民は安心して生活できるだろうか。民の生活が安定しなくなれば、王命に堪えられる者はいなくなり、禍乱を招くことになるだろう」

 

 霊王に対し、逆らう者がいなければ、霊王は調子に乗ってますます民を酷使するようになる。そのため民は安心して暮らせることができなくなってしまうのである。









 

 莒の内争を経て即位した著丘公は、鄫を慰撫しなかった。そのため鄫が莒に叛して魯に帰順した。

 

 九月、魯が鄫を領有した。

 

 そんな中、鄭の子産しさんが「丘賦」を作った。「丘賦」というのは恐らく魯の「丘甲」と同じで、軍賦を徴収する制度のことである。

 

 鄭の国人は子産を謗った。


「その父(子国しこく)は路で死んだにも関わらず)、彼自ら蠆尾(蠍の尾。人を害する存在)となって国に命令している。この国はどうなるのであろうか」


 子産が自分たちをいじめているという歌である。

 

 大夫・子寬しかん渾罕こんかん)がこの事を子産に話すと、子産はこう言った。


「心配はいらない。社稷に対し、利があるのであれば、死生を気にすることはなく、善を行う者は度(法制)を改めないから成功できるという。民は放縦にしてはならなく、度は改めてはならないものだ。『詩(佚詩)』にはこうある『礼と義において間違いがなければ、他人の批評を気にする必要はない』私は改めるつもりはない」

 

 子寛は後にこう言った。


「国氏(子産は子国の子で、国氏を名乗った)は一番早く亡ぶだろう。君子が涼(酷薄・軽率)という状態の上に法を作れば、最後は貪(貪婪)になるものだ。貪の上に法を作れば、その結果は言うまでもないではないか」


 彼は子産は国民の言葉に聞き入れず、軽率に法を作っていると批難した。


「姫姓の国においては、蔡、曹、滕が先に亡ぶだろう。これらの国は大国の圧力を受けながらも礼がないからだ。そして鄭は、衛より先に亡ぶだろう。大国の圧力を受けながらも法がないからだ。鄭の政は法に則らず、個人の心によって決められている。民にはそれぞれ心があるものだ。このままでは、上を尊重することなどできないではないか」


 鄭の政策は旧制に則らず、子産個人の考えで決められてしまっている。それを反省するようでもない。彼には子産の姿が傲慢そのものに見えたのだ。


 このように執政者が自分の心のままに政治をすれば、民も旧制を無視して心のままに行動するようになる。そうなれば、下が上の命令を聞かなくなるではないか。


 彼の意見は民の上に立つ貴族の考え方であり、貴族の立場での言葉であると言える。一方、子産としては国のための改革の一環として、政策運営を行っているのだ。決して民を軽視しているわけではない。


 これはあくまでも政治への考え方の違いでしかない。


 冬、呉が朱方の役の報復のため楚の棘、櫟、麻に侵攻した。


 楚の沈尹(沈の県令)・が夏汭に奔って朝廷の命を待った。


 葴尹(または「咸尹」「箴尹」)・宜咎(鍼宜咎。元は陳の大夫)が鍾離に城を築き、薳啓疆いけいきょうが巣に城を築き、然丹(鄭から楚に出奔した子革)が州来に城を築いた。


 しかし東国(楚東部の諸国。鐘離・巣・州来・頼など)で洪水があったため、城は完成せず、頼で工事をしていた兵も楚の大夫・彭生ほうせいによって撤収された。




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