盟主の座を巡る外交
鄭の簡公が楚に朝入し、子産が相を勤めた。
楚の霊王が享礼で簡公を遇し、『吉日(詩経・小雅)』を賦した。周の宣王の狩猟の詩で、霊王は簡公を狩猟に誘うためにこの詩を選んだ。
享が終わると、子産が狩猟の準備を整え、霊王と簡公が江南の夢(雲夢。地名)で狩りを行った。
紀元前538年
正月、許の悼公が楚に来た。霊王は悼公と簡公(前年入朝した)を楚に留め、再び江南で狩りを行った。悼公も狩りに参加した。
霊王が諸侯の帰順を得るため、伍挙を晋に派遣した。二君(簡公と悼公)には伍挙の帰国を待つように命じた。
「我らは人質か?」
簡公が首を傾げる中、子産は、
「危害が加われることはないでしょう」
と言った。そんな勇気までは霊王には無い。
伍挙が霊王の言葉を晋に伝えた。
「我が君が私を派遣して貴国にこう伝えさせました『以前、貴君の恩恵によって、宋の盟が成立がなり、晋楚の両国に対して、諸侯を交互に朝見させることが約束されました。しかし近年、楚は難が多かったため、私は二三君(いくつかの諸侯)と誼を結びたいと考えております』もし貴君に四方の虞(憂い)がないようならば、貴国の寵(威光)によって諸侯を動かしていただきたいと思います」
これは表面上は「楚が苦しい状況にいるため、諸侯の助けを得たいので、晋から諸侯に働きかけてほしい』という風に見えるが、実際のところは『楚が諸侯を集めて盟主になることに対し、晋の同意がほしい』ということである。
晋の平公は要求を拒否しようとしたが、司馬侯が止めた。
「いけません。もしかすれば楚王の驕慢に対し、天が楚王の欲を満足させて、ますますその毒を厚くし、罰を与えようとしているのか。またあるいは、その逆に楚王が善い終わりを得ることになるかもしれません。どちらになるかはわかりませんが、晋も楚も天によって覇権が与えられたので、互いに争うべきではございません。主君は楚の要求に同意し、徳を修めて結末を見極めるべきです。もしも楚王が徳に帰するようならば、我々はそれに仕えるべきであり、諸侯ならなおさらです。もしも楚王が淫虐に向かうのであれば、楚が自ら覇を棄てることになります。我々が争う必要はありません」
平公は不機嫌になりながら、
「今の晋には三つの不殆(危険から逃れる理由)があり、我が国と敵対できる者はいないではないか。国は険阻で馬も豊富、斉と楚は多難にある。この三者がそろっていれば、どこに向かっても失敗することはないではないか」
司馬侯は言った。
「険要と馬に頼り、隣国の難を喜ぶのは、逆に三殆(三つの危険)と言うべきです。四嶽(泰山・華山・衡山・恒山)、三塗(三塗山。または太行・轘轅・崤澠の総称)、陽城(城山嶺)、大室(嵩山)、荊山、中南(終南山)は九州の険ではございますが、それを領有した姓(国)は一つではございません」
険阻な地を擁していながらも守ることができず、何回も統治者が変わってきたのである。必ずしも険阻な地形が頼りになるわけではない。
「冀の北土(冀州の北。燕や代の地)は馬を産出しますが、有力な国が興ったことはございません。よって、馬が多くても頼りになりません。険要と馬に頼っても、国を固めることができないことは、古から変わりません。だから先王は徳音(徳行と名声)を修めて神と人を通じさせたのです。険要と馬に力を注いだとは聞いたことがございません」
更に彼は続ける。
「それに隣国の難を喜ぶべきではございません。多難な国は、あるいは多難なために国を固め、疆土(領土)を拡げるかもしれないのです。逆に平穏な国は、難がないために国を滅ぼし、守宇(領土)を失うかもしれないのです。なぜ隣国の難を喜ぶことができましょうか。斉は公孫無知の難があったため、桓公が即位し、その功績に今も頼っております。晋は里(里克)・丕(丕鄭)の難があったために、文公が即位して盟主になれたのです。逆に衛や邢は難がなかったのに一回、敵に滅ぼされる目にあっております。だから他者の難は喜んではいけないのです」
人というものは誰か敵を作れば、人々は団結し、敵がいないと自分のことしか考えなくなるものである。それは国も同じことなのだ。
「この三者に頼り、政徳を修めなければ、滅亡は近くなります。それなのになぜ成功することができましょうか。主君は楚に同意するべきです。紂王は淫虐を行い、文王は恵和を行ったため、商が滅んで周が興隆したのです。諸侯を争ったからではありません」
平公は楚の要求を受け入れることにした。
晋の叔向が伍挙に答えた。
「我が君は社稷の事があり、自ら春秋(四季)の会見に行くことができませんが」
謙遜の言葉である。実際には、元々平公自らが自ら楚王に会いに行く必要はない。
「諸侯は貴君が実際に擁しているのです。なぜ晋の命を求める必要があるのでしょうか」
伍挙が晋に婚姻を求めると、平公はこれにも同意した。彼が楚を出る時、霊王から晋女との婚姻の話もするように指示していたようである。
霊王が楚に留めている子産に聞いた。
「晋は諸侯が私に帰順することを許すであろうか」
「許しましょう。晋君は目先の安定を求め、志は諸侯になく、大夫は貪婪であり、その君を正そうとはしません。また、宋の盟では楚・晋が一つになることを誓っているのです。もしも貴君に同意しなかったら、盟約の味がないではありませんか」
「諸侯は来るだろうか?」
「必ず来ます。宋の盟に従い、貴君の歓心を求め、大国(晋)を畏れる必要がないとなれば、来ないはずがありません。但し、魯、衛、曹、邾は来ないと思われます。曹は宋を畏れ、邾は魯を畏れ、魯と衛は斉の圧力を受けているため晋と親しくしているからです。よってこれらの国は来ないでしょう。その他の諸侯は、貴君が到る所なら必ず来るでしょう」
「それでは、私が望むことは全て実現するだろうか?」
霊王の言葉に子産は、
「人から満足を得ようとすれば、その人が反発することになりますので失敗することになります。他の人と欲(願い)を同じにすれば、全て成功することでしょう」
と牽制の言葉をもって答えた。
魯で大雹が降った。
季孫宿が申豊(季氏の大夫)に聞いた。
「雹を防ぐことができるか?」
申豊が答えた。
「聖人が上にいれば、雹はなくなると申します。たとえあったとしても、災害にはならないものです。古は日(太陽)が北陸(虚宿と危宿)にいる頃(小寒・大寒の頃)、藏冰(氷を蓄えること)し、西陸(昴宿と華宿)が朝現れる頃(清明・穀雨の頃。夏暦四月頃)、蓄えた氷を取り出したものです。藏冰の時は、深い山谷に陰寒の気が固まるため、そこから氷を採ったのです。蓄えた氷を出す際は、朝廷に禄位の人(卿大夫士)がおり、賓(賓客をもてなすこと)、食(国君の食事)、喪(葬儀)、祭(祭祀)を行うために氷を使いました。藏冰の際は、黒牲(黒羊)、秬黍(黒黍)を用い、司寒(冬神。黒は冬と北の色です)を祀りました。氷を出す際には、桃弧(桃木の弓)、棘矢(荊の矢)を使い、災害を除きました(お祓いをしました)。氷を蓄える際も出す際も、決まった時節があり、食肉の禄(肉を食べることができる官吏)は皆、氷を使うことができ、大夫と命婦(大夫の妻)が死ぬと氷を床の下に敷きました(死体の腐敗を防ぐため)。司寒を祭り、氷を蓄え、羔(子羊)を供えて冰室を開き、公(国君)が初めに氷を使いました。火(大火星。火星)が出れば(夏暦三月頃)氷を分配し、命夫(大夫)も命婦(大夫の妻)も老疾(老人・病人)も、氷を受け取らない者はおりませんでした。山人(山を管理する官)が深山で氷を採り、県人(地方の人。または地方官・県正)がそれを運び、輿人(賤官)がそれを納め、隸人(賤官)がそれを収蔵しました。氷は寒風によって堅固となり、春風によって取り出されるようになります。その保管は周密であり、用いる際は偏りがないため、冬には愆陽(夏のように暑い日)がなく、夏には伏陰(冬のように寒い日)がなく、春には淒風(寒風)がなく、秋には苦雨(長雨)がなく、雷が鳴っても人を傷つけず、霜や雹が降っても災害をもたすことはなく、癘疾(疫病)が流行らず、民は夭札(伝染病で早死すること)がなかったのです。しかし今は、川池の氷を蓄えても用いず、風がなくても草木が枯れ落ち、雷が鳴らなくても震動しています(被害が出ています)。雹の災害を誰が防げると言えましょうか。『七月(詩経・豳風)』の末章は藏冰の道理を語っています」
この年、魯で有若が産まれた。有若は字を子有といい、後に孔子の弟子となった(但し産まれた年については諸説ある)。




