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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第九章 名宰相の時代

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州県

 四月、鄭の簡公かんこうが晋に行き、公孫段こうそんだん伯石はくせき)が相を勤めた。

 

 公孫段の態度は恭敬で相手にへりくだり、礼に背くことはなかった。晋の平公へいこうは彼の態度を称賛し、策書(賜命の書)を与えて言った。


子豊しほう(公孫段の父)は晋に対して功労があり、私はそれを忘れたことがない。汝に州県(地名)の田(土地)を下賜し、旧勳に報いることにしよう」

 

 公孫段は再拝稽首し、策書を受け取って退出した。あの公孫段がこれほどの敬意をもたれたことに関して、君子はこう言った。


「礼とは人が生きるにあたって最も重要な要素である。伯石(公孫段)は驕慢であったが(公孫段は偽って三回卿の地位を辞退したため、子産に嫌われた)、晋で一度礼を行っただけで、このような福を得ることができた。終始、礼を行っていたのであれば、更に大きな福を得ることができただろう」

 

 さて、公孫段への褒美として何故、州県が与えられたのかということに実は理由がある。


 州県はかつて欒豹らんひょう欒盈らんえいの親族)の邑であったが、欒氏が滅ぶと士匄しかい趙武ちょうぶ韓起かんきが自分の邑にしようとした。


 趙武が言った。


「温は私の県です」

 

 元々温と州は周に属す二つの邑であったが、晋領になってから、一時は温に統一されていた。温は趙氏の邑であったため、趙武はかつて温に属した州も自分の邑とする権利があると主張したのである。

 

 一方、士匄と韓起は、


郤称げきしょうが温と州を分けてから、既に三氏に伝わってきた(州が温と分かれてから、最初は郤称の邑となり、その後、趙氏、欒氏と主が変わった)。晋で県が分けられたのも、州だけではございません。多くの県邑の姿が変わっているにも関わらず何故、以前の状況で現在の邑を治めるというのでしょうか?」

 

 趙武は二人の意見を聞いて反省し、州県をあきらめた。

 

 しかし二人も、


「口では正議(正論)を述べたにも関わらず、利を自分のものにするべきではない」


 と言って州県の領有をあきらめた。

 

 後に趙武が政事を行うようになると、趙獲ちょうかく(趙武の子)が言った。


「州を取ることができます」


 正卿になったのだから有しても良いではないかという意見である。

 

 すると趙武は叱るように、


「退きなさい。二子の言は義である。義に背けば禍を招くものだ。私は己の県を治めることもできないにも関わらず、州を得て自ら禍を招けというのか。君子は『禍を知らないのは難しい(禍は事前に知ることができる)』と言った。正しいと知りながらこれに従わないことほど、大きな禍はない。今後、州について語る者がいたら死刑にする」


 それから趙氏は州に関して何も言わなくなった。

 

 さて、話しを今に戻す。


 公孫段は晋に滞在中、公館に泊まらず、韓氏の家に泊まっていた。因みに国が準備した賓館を「公館」、知人等の家を「私館」という。

 

 州県が公孫段に下賜されたのは、公孫段と親しい韓起が平公に進言したためである。但し、韓起が公孫段を推した真の理由は、後に公孫段が州県を晋に返還することになった時、韓起の邑にすることができるからである。


 実際、四年後に州県が韓起に譲られることになる。この人にもこういう狡さがある。







 

 五月、滕に成公せいこうの葬儀に参加するため、魯の叔弓しゅくきゅうが滕に向った。


 子服恵伯しふくけいはくが介(副使)になった。しかし郊外で彼の父・叔仲しゅくちゅうの死去を知ったため、叔弓は滕に入るのを止めた。


 父母が死んだ時はその死を悼んで何もしないことが礼とされていたが、もし正使の叔弓が滕に入れば、副使の子服恵伯が郊労(郊外で慰労を受けること)や賓館の手配等の業務をすることになるからである。

 

 しかし子服恵伯はこう言った。


「公事は公の利を考えるべきであり、私忌は関係がありません。私が先に行くことをお許しください」

 

 彼は先行して滕による授館(賓館の手配)を受け入れ、宿泊の手配を済ませた。その後、叔弓も滕に入って、成公を葬送した。

 

 晋の韓起かんきが斉女を迎えに行った。

 

 少姜しょうきょうが平公の寵愛を受けていた。そのことを知っている斉の公孫蠆こうそんたい子尾しび)は魔が差したのか自分の娘を公女として晋に送り、本物の公女は別の者に嫁がせるというとんでもないことを行った。

 

 ある人が韓起に言った。


「子尾は晋を騙しています。なぜこれを受け入れようとしているのですか?」

 

 韓起は、


「私が斉の関係を良くしようと勤めているにも関わらず、斉君の寵臣(子尾)を遠ざければ、斉の寵臣が私に近づかなくなるだろう」

 

 まあ簡単に言ってしまえば、妥協である。

 

 秋、七月、鄭の罕虎かんこ子皮しひ)が晋に入って夫人を祝賀し、あわせてこう報告した。


「楚が我が国に対して、新王が立ったにも関わらず、朝見しないことを日々譴責して来ております。しかし我が国が楚に行ってしまうと、執事(晋の執政官)が我が君の外心を疑うのではないかと恐れております。逆にもし行かなければ、宋の盟(中小国は晋・楚両大国に朝見する盟約)に背くことになるとも恐れております。これでは進退ともに罪を得てしまうため、我が君は私を派遣してこれらのことを報告させました。」

 

 韓起が叔向しゅくきょうを送ってこう答えた。


「貴君の心が本当に我が君にあるのであれば、楚を恐れることはありません。宋の盟を修めるだけです。貴君が盟約のことを思っているのならば、我が君は貴君が罪から逃れられることを知っております。しかしもしも貴君の心に我が君がいないようならば、たとえ朝夕に我が国を訪問したとしても、我が君は貴君を疑うことでしょう。貴君に誠意があるのであれば、敢えて報告する必要はありません。貴君は楚に行くべきです。心の中に我が君がいるのなら、たとえ楚にいても晋にいるのと同じです」

 

 

 

 晋の張趯が使者を送って鄭の游吉ゆうきつに言った。


「前回、あなたが帰国してから、私は先人の敝廬(粗末な家)を掃除し、あなたが再び来るのを待っておりました。しかし今回は子皮が来たため、私は失望しました」


 春、游吉が「また来ることになる」と言ったための発言である。


 游吉はこう答えた。


「私は身分が低いため(上卿ではないので)、来ることができませんでした。これは大国を畏れ、夫人を尊ぶが故です。それに、あなたは『あなたは無事でしょう(再び来る必要はないでしょう)』と言っておられました。恐らく私にはやるべき事がございません(晋を訪問する必要がなくなりました)」

 

 小邾の穆公ぼくこうが魯に来朝した。

 

 季孫宿きそんしゅくが小邾を軽視し、わざと諸侯の礼を用いないで対応しようとしたが、叔孫豹しゅくそんひょうが止めた。


「いけません。曹、滕と二邾(邾と小邾)は我が国との友好を忘れたことがございません。敬意をもって迎え入れたとしても、尚、二心を抱くことを畏れるものにも関わらず、敢えて一国を見下して対応すれば、友好関係にある多くの国を迎え入れることができなくなるではありませんか。今まで通り、敬意を加えるべきです。『志(佚書)』には『恭敬ならば災禍がないものだ』とあり、『来る者に敬意を持って迎え入れれば、天が福を降すだろう』ともあります」

 

 季孫宿はこれに従った。







 

 斉の景公けいこうが莒で狩猟を行った。

 

 この時、盧蒲嫳ろほへつ慶封けいほうの党として追放されていた人物)が景公に謁見し、泣いて乞うた。


「私の髮はこのように短くなっております(年をとりました)。私に何ができるでしょうか」


 このような老人に何ができるのか。故郷に戻りたいということである。

 

 景公は彼を哀れみ、


「分かった。二子(子雅しがと子尾)に話してみよう」


 と言って帰り、二人に話た。

 

 子尾は帰ることに賛成したが、子雅は反対した。


「彼の髮は短くとも、心は長く、策略陰謀を考えることができます。彼が我々の皮の上で寝ることに可能性があります。私は反対です」


 盧蒲嫳はかつて子雅と子尾を禽獣に喩えた言葉を発しており、それを踏まえ彼が謀反して子雅等を殺す恐れがあると主張したのである。

 

 九月、子雅は盧蒲嫳を燕に追放した。大人しくしていれば、国からの追放をされなかったものを彼は些か頭が回り過ぎたか。

 

 燕では、燕の簡公かんこう恵公けいこう)は嬖寵(寵臣)が多く、諸大夫を退けて寵人に官位を与えようとしていた。

 

 冬、燕の大夫が連合して簡公の外嬖(寵臣)を殺したため、簡公は斉に出奔した。


 十月 斉の公孫竈(子雅)が死んだ。

 

 大夫・司馬竈しばそう晏嬰あんえいに会って言った。


「子雅を失ってしまいました」

 

 晏嬰は哀しみの色を見せ、


「惜しいことです。子旗しき(子雅の子)は危険から逃れられないでしょう。姜族(斉の公族)が弱くなり、嬀姓(陳氏)が興隆し始めます。二恵(恵公けいこうの孫二人。子雅と子尾)は剛強で聡明ではありましたが、そのうちの一人を失ったのですから、姜族は危険であると言えましょう」

 

 







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