賢臣たちの愚痴
斉の景公が晏嬰を晋に派遣して新たに妻妾とする女性を送ることを請うた。
晋に入った晏嬰が言った。
「我が君(景公)が私を派遣してこう伝えさせました『私は貴君に仕えて朝夕も倦むことなく、時を失わずに質幣の奉献を行おうと思っておりますが(定期的に朝見を行うつもりですが)、国家が多難である故、自ら参ることができません。幸いにも先君の適(少姜。先君は荘公で、適は嫡夫人の子。少姜は荘公の正夫人が産んだ子だったようである)が内官(晋の平公の後宮)に入り私の望を明らかにできたと考えておりましたが、禄(福)がないため早逝してしまい、私の望が失われました。貴君が先君の誼を忘れず、斉に恩恵を与え、私を受け入れ、大公(太公望。斉の祖)、丁公の福を求め、我が国に光を与え、社稷を鎮撫致しょうとし、我が国にはまだ先君の適(先君の正夫人が産んだ娘)と遺姑姊妹(先君の妾妃が産んだ娘。ここでいう先君は霊公と荘公)がいます。貴君が我が国を棄てず、使者を送って慎重に選び、嬪嬙(姫妾)に加えるとしたら、それは私の望です』」
晋の韓起が叔向を送って答えた。
「それは我が君の願いでもあります。我が君は社稷の大事を一人では担えず、まだ伉儷(正妻)もおりませんが、縗絰の中(喪中)であったため、敢えて請いませんでした。貴君にそのような命(意見)があるのならば、これ以上の恵はございません。もしも我が国に恩恵を与え、国を鎮撫し、内主(正夫人)を賜るようなら、我が君だけでなく、群臣を挙げてその貺(賞賜)を受け入れ、唐叔(晋の祖。斉の大公・丁公に対応している)以下、それを寵嘉(光栄として称賛すること)します」
昏(婚約)が成立すると、晏嬰は賓享(賓客のための形式的な宴)の礼を受け、その後、叔向に従って酒宴に参加した。
叔向が、
「斉はどうですか?」
と問うと、晏嬰はこう答えた。
「季世(末世)と言えます。斉は陳氏に代わられることでしょう。公はその民を棄て、陳氏に帰させております。斉には元々四量(四種類の量器)がございます。豆・区・釜・鍾です。四升を豆といい、それぞれを四倍にすると一釜になり(一豆は四升。四豆は一区で一斗六升。四区は一釜で六斗四升)、十釜で一鍾(六斛四斗)となります。陳氏はこのうちの三量(豆・区・釜)をそれぞれ四分の一ずつ増やし(五升を一豆、五豆を一区、五区を一釜にした。一区は二斗、一釜は八斗)、鍾が大きくなりました(一鐘が八斛になった)。家では大きな量器を使い、貸し出す際にそれを使い、公では小さい量器を使って徴収に使っております。また、山木が市に運ばれても山中と同じ値で売られ、魚・塩・蜃蛤(貝類)が市に運ばれても海と同じ値で売られるようにしており、このようにして、陳氏によって人心が収攬されているのです」
陳氏は貸し出す際は出す量を多くし、徴収する際は受け取る量を少なくするなど陳氏は民の喜ぶことをしている。
「ところが、例えば民に三つの力(賦税・労役等)があるとすれば、二つは公のために使われ、一つだけが陳氏の衣食を確保するために用いられております」
人心を得ている陳氏よりも、斉の公室の方が多くを搾取している現状がここに生まれている。
「公が集めたものには無駄が多く、朽蠹(腐ったり虫が喰うこと)しているにも関わらず、三老(国の模範となる三人の老人)でさえ飢えと凍えに苦しみ、国内の諸市では履物が安く踊(義足。または脚が不自由な人が使う杖)が高く売られております」
国が民から取るものが多く、飢えや寒さに苦しむ者や刑罰によって脚を失った人がたくさんいる状況となっている。
「人々が疾病に苦しんだ時、陳氏は民を厚く看病し、父母のように民を愛すようにしました。そのため民は水が流れるように陳氏に帰心しています。このような状況で、陳氏が民を得たくないと思っても、避けることができるでしょうか。箕伯、直柄、虞遂、伯戲(舜の子孫。陳氏の先祖)は胡公(陳の祖)と大姫(太姫。胡公の正夫人。武王の娘)に従い、既に斉におります」
陳氏の先祖の霊が既に斉におり、陳氏を守っており、陳氏には民からの信頼もある。この状況によって、陳氏を覆すことはできないと言える。
(陳氏の世の春が来たれりというところだな)
だが、それを黙って見ている晏嬰ではない。
(私の目の黒いうちは、国など取らせん)
叔向も頷きながら晏嬰に言った。
「我々の公室も、また季世と言えます。公室の戎馬(軍馬)は兵車を牽くことなく、諸卿は公の軍を率いず、公乗(公室の車)には人(御者と車右)がなく、卒列(歩兵の列)には長官がおりません。公室の軍備は退廃していると言えます」
公室に力が無くなりつつある。
「庶民は疲弊している一方で、公室はますます贅沢が増しており、道には餓死者が並んでいるにも関わらず、女(姫妾とその家族)の富はますます増えている。そのため、民は公の命を聞くと寇讎が来た時のように逃げ隠れするようになっています」
民にとって、公室は尊重するべき存在ではなく、自分たちの富を奪う存在でしかなくなっている。
「欒・郤・胥・原・狐・続・慶・伯の八氏(全て姫姓出身)は皂隸(奴隷。下級官吏)に落ちぶれ、政権は家門(韓氏・趙氏等の諸卿)に移り、民は頼る者がおりません。それでも国君は日々改めず、娯楽によって患憂をごまかしています。公室の衰亡まで日はないでしょう。『讒鼎(鬵鼎。鼎の名。かつては魯にあり、後に斉に移った。晋にも同じ物があったのかもしれない)』の銘にはこうあります『日が明けし時、名声が明らかにされん。しかし後世は怠惰して名声を失わん』日々反省しなければ、長く続くことはございません」
「あなたはどうするつもりですか?」
「晋の公族は終わります。公室が衰退する時、その宗族(支族)がまず枝葉が落ちるように没落し、公室がそれに続くと申します。かつて肸(私)の宗は十一族がおりましたが、羊舌氏だけが残りました。肸には子もいません。公室に節度がない今、普通に死ぬことができるだけで幸せというもの。死後に子孫の祭祀を受けようとは思いません」
二人は同時にため息をついた。国が誇るべき賢臣二人が愚痴を零しながら、ため息をつくという世にも珍しい光景がここにある。
かつて斉の景公が晏嬰のために家を建て替えようとしたことがあった。
「あなたの家は市に近く、湫(土地が低く湿気が多い)・隘(狭い)・囂(騒がしい)・塵(塵埃が多い)であり、そのため住むのに不便だ。爽(明るい)・塏(土地が高く乾燥している)の地に移った方が良いだろう」
彼にとっては晏嬰への好意を示したつもりであった。しかし晏嬰は辞退した。
「あの地は主君の先臣(晏嬰の先祖)が受け入れてきた地でございます。私に先臣を受け継ぐ能力が無いことは重々承知しております。今の家に住めるだけで充分と言うものです。また、小人が市の近くにいれば朝夕に求める物を得ることができるもの。これは小人の利です。敢えて里旅(大夫の住居を管轄する官)を煩わせることはございません」
景公は頬を引きつらせながら笑って言った。
「あなたは市の近くにいるが、貴賤(物価の高低)を知っているか?」
「それを利としているのです。知らないはずがございません」
「何が貴(高い)で、何が賤(安い)だろうか?」
当時、景公は刑罰を頻繁に用いていたため、踊(義足。または杖)を売る者が市に増えていた。そのため晏嬰は、
「踊が貴であり、屨(履物)が賤でございます」
と答えた。叔向との話に出た踊はこの事を指している。晏嬰の言を聞いて景公は刑を少なくした。
君子(知識人)は、
「仁人の言とは、広く利をもたらすものである。晏嬰の一言で、斉の景公に刑を省かせた」
と言って称賛した。
晏嬰が晋に行った間に、景公は以前言っていた晏嬰の家を建て替えを行った。場所は遷さず、近所に住む者を引っ越させて建物を大きくした。
家が完成してから晏嬰が帰国した。しかし晏嬰は景公に拝謝すると、新居を取り毀して隣人を呼び戻し、元の姿に戻してしまった。
晏嬰は言った。
「諺にはこうある『卜うのは家ではなく、隣人を卜え』と、二三子(彼等。隣人)は元々卜って隣人となった。卜いに背くのは不祥である。君子は非礼を行わず、小人は不祥を行わないのが古の制だ。私にはそれに逆らうことはできない」
晏嬰は家を元に戻そうとしたが、景公は許さなかった。これは彼なりの好意の示し方であり、それを無下にされるのは嫌なものである。
(主公は頑固なところもある)
晏嬰はため息をつきながら陳無宇のところに出向き、景公の説得を頼んだ。陳無宇は嫌がりながらも景公に請願した。そのためやっと許可された。




